西田天香と一燈園生活期の尾崎放哉 
新出資料を中心に   中村武生(西田天香研究家)
 
 近年の生命主義の研究において、大正時代が誕生期ととらえられ、その担い手のひとりとして、無所有・奉仕の実践家、西田天香(市太郎、1872〜1968)が取り上げられている(1)。天香の活動は、一燈園生活(もしくは一燈園運動、一燈園活動)と呼ばれ、その独特な生活や活動を検討した既往の成果は多い(2)。とりわけその多彩な交流関係に注目したのは笠原芳光である(3)
 笠原は、天香の交流のあった人物として、田中正造や徳富蘆花、倉田百三、阿部次郎、安倍能成、和辻哲郎、河上肇、尾崎放哉、河井寛次郎、石川三四郎、近角常観、谷口雅春らをあげ、「これらの人々と天香との、そして彼等相互のかかわりを跡づけ、描いていくことができるなら、それは近代日本の思想史や文化史において、貴重なものとなるに違いない。天香の周辺に生じた人間交流の軌跡はかなり大きく、また意外なところへ発展していくと考えられる」と指摘し、その詳細な検討を課題とした。
 本稿では、笠原の指摘を受けて、右記人物のなかでも、尾崎放哉「秀雄」との交流を取り上げる。尾崎放哉は、日本近代文学史上、種田山頭火と並ぶ自由律俳人として、多大な評価を受けている(4)。とりわけ一燈園での修行時代を画期とし躍進することは周知のことである(5)。それゆえこれまで多くの先学が、一燈園生活期の尾崎について論究を試みてきた(6)。なかでも小山貴子は、天香のみならず、最も放哉が親しく交わった一燈園同人住田蓮車「無相」に焦点をあて、精力的に考究を加えている(7)
 ところがそれにもかかわらず、当該期の尾崎の具体的な行動については、不明な点が多い。たとえば一口に尾崎の一燈園生活期といっても、入園から兵庫県須磨寺へ移るまで(大正12年(1923)11月23日〜13年6月6日)、須磨寺を出て現福井県小浜市常高寺に入るまで(大正14年4月頃ー5月中旬)の二時期存在する(8)。一燈園では、依頼されて行う労働を「托鉢」と称しているが、尾崎がその期間にどこで「托鉢」を行っていたか、またその時期はいつからいつであったか、といった基礎的なことがあまり明らかではない。
 これまで「托鉢.場所については」わずかに現京都府舞鶴市(9)、洛東知恩院塔頭常称院(10)、京都市内の蕎麦・うどん店河道屋(11)(中京区麩屋町通姉小路東入ル南側・植田貢三方)の三ヶ所が知られていた。しかしその期間については、大正13年3月から4月にかけての約一ヶ月間、常称院に滞在していたという以外、まったく不明であった。
 最近、小山貴子が、天香宛の大正14年1月10日付けの尾崎の書簡の全文を報告し、その前後に従事していた舞鶴での托鉢に、はじめて詳細な検討を加えた(12)。しかし、尾崎が舞鶴で「托鉢」生活を送るようになった事情やその期間は、史料の制約によって明らかにされなかった。常称院に移るまでの約二ヶ月間は、舞鶴以外の「托鉢」に従事しなかったのであろうか。
 現在、一燈園資料館「香倉院」(以下、香倉院と略す)では、天香の手記「天華香洞録(てんかこうどうろく)」の翻刻・刊行の準備作業のほか(13)、所蔵の関係文書の整理作業が進められている。筆者は縁あって、右記の編纂業務にかかわってきた。その作業の過程で、右記課題に答えうるいくつかの尾崎放哉関係史料を確認することができた。
 本稿では、小山貴子をはじめとする先学の成果をふまえた上で、これらの史料をもちいながら、不明点多い一燈園生活期の尾崎放哉への接近を試みるものである。
 なお一燈園という語について少しのべておきたい。(a)一燈園とは大正二年に京都市上京区鹿ヶ谷桜谷町四番地(当時)に建立された修養道場の名称に始まる。(b)その後、転じて修養活動を行う機関をも一燈園とよび、経済活動を行う機関「宣光社」(後述)と区別した。(c)しかし一般には、「宣光社」も含めて、天香やその後継者、もしくは代理人の指示に従い、「無所有・奉仕」生活を行う組織の呼称などとして使われることが多い。
 ここではこれら三つの「一燈園」の混用をさけ、「c」についてのみ一燈園を使用し、「a」は単に鹿ヶ谷道場(もしくは修養道場)、(b)については修養部と呼称することにする。
 
1、大正12年11月までの尾崎・天香・一燈園
 
 尾崎放哉の一燈園入園は、自身がのちにまとめた「入庵雑記」によると、大正12年11月23日である。主題に入る前に、一燈園生活を開始する以前の尾崎のあゆみを概説しておきたい。
 尾崎は、明治18年(1885) 1月20日、現鳥取市立川町において、鳥取地方裁判所書記尾崎信三・なか夫妻の嫡子として誕生した。第一高等学校を卒業後、東京帝国大学法科大学に入学。在籍中に「ホトトギス」などに作句が入選するなど、すでに俳人としての壁片をのぞかせていた。明治42年の卒業後、数年をへて東洋生命保険会社に就職する。就職後もますます俳句への情熱はたかまるものの、会社生活は不遇なことがつづき、大正10年に辞職。翌年には縁あって朝鮮火災海上保険株式会社に支配人として就職、再起をはかるが、まもなく免職。この頃三たび肋膜縁をわずらったことに端を発し、一燈園で「無一文」の「懺悔の生活」を試みようと、京都にやってくるのである(15)
 これに対して、尾崎がやってきた当時の西田天香と一燈園は、いかなる環境にあったのか。天香の前半生から略述しておきたい(16)
  一燈園生活を開始する以前の天香は、現滋賀県長浜市屈指の料理商西田八重郎(二代目、のち隠居して保三)の嫡子として誕生した実業家であった。しかし北海道での事業の失敗などに端を発して、明治37年4月より無所有・奉仕の「捨身」の生活を開始する。
 当初天香は、単身で、京都や大阪などの知人の求めに応じて、その都度、「托鉢」に従事していた。しかし天香と同じく実業家であった遠縁の西田卯三郎が、秋田県鹿角郡(当時)の田ノ沢鉱山の経営に失敗して、事業を天香に託して「捨身」生活を共にし出してから事情がかわる。天香は「捨身」の精神で、理想的な鉱山経営をしようと試みるのである。これがのちに「宣光社」といわれる経済部の濫觴である。また卯三郎以後、多くの共感者が天香に同行するようになる。
 大正元年、卯三郎が突然失明する。翌年、天香に私淑していた一人、京都市の藤田玉は、その療養所の目的で、私財を投じて道場の建設を提案する。これが「一燈園」と号された鹿ヶ谷の修養道場である。一燈園同人は、時に応じて修養部と経済部の「托鉢」に従事しつつ、原則としてそこで起居していた。
 ただし代表である天香は、鹿ヶ谷には起居しなかった。呼ばれるとどこでも行くという生活方針であったから、日常は一般の支持者の宅に移り住んでいた。
 大正12年2月当時、おもに天香が起居していたのは、現京都市上京区衣棚通丸太町上ル東側の杉本徳次郎方である。杉本徳次郎(1878〜1960)は杉本精錬場「現杉本練染株式会社」主で、大正6年より天香に師事し、自宅の一角を提供していた。つまりここが当時の天香の「自宅」であった。
 なお天香の活動を大きく世に広めることになったのは、大正8年創刊の機関誌「光」と、大正10年刊行の講演録「懺悔の生活」である。前者は定期的に読者へ天香と一燈園の活動が分かる役目をになって、刊行されつづけた。後者は刊行後、わずか一年ほどで120版増刷され、八万部もの売れゆきをみせるという爆発的人気を博し、その名と活動を広く世に広める役割を果たした。
 さらに天香と一燈園の活動を世間に知らしめたのは、尾崎入園の二ヶ月前におきた、関東大震災である。天香は直後から一燈園同人とともに大挙上京し、その救済事業に挺身したのである。尾崎が一燈園にやってきたのは、このような時期であった。
 
  2、尾崎の舞鶴「托鉢」
 
 尾崎がのちに回顧したところによると、当時一燈園同人の「托鉢」先として、
 お留守番、衛生掃除、ホテル、夜番、菓子屋、ウドン屋、米屋、病人の看護、お寺、ビラ撒き、ボール箱屋、食堂、大学の先生、未亡人、簡易食堂、百姓、宿屋、軍港、小作争議、病院の研究材料(之はモルモットの代りになるのです)等々(後略)
があったことが分かる(17)。当時、一燈園には160人の同人が在籍しており、そのうち50人が関東大震災の復興手伝いのため東京へ、また50人が地方に派遣され、残りの60人が鹿ヶ谷道場より京都市内外へ「托鉢」に出かけていた(18)。他の同人とともに、入園まもなくの尾崎も、これらのいずれかに派遣されていたのであろう。おそらく「ウドン屋」は先述の河道屋など、「軍港」は舞鶴を指すものと思われる。
 既述のように、年次がはっきりしている尾崎の最初の「托鉢」地は、大正14年1月10日の舞鶴である。しかし史料の制約から、舞鶴にいたった経緯や、「托鉢」期間については分からなかった。小山貴子は、尾崎が舞鶴で「托鉢」を行った理由について、以前に西田天香が講演を行うなどして、縁ができていたためと推定していた(19)
 ところで天香は、当時、手記や日記(以下「日記」)を認めていた。先述のように手記は「天華香洞録」といい、三五冊現存する(20)。天香が「捨身」生活を開始した明治37年4月に執筆をはじめ、昭和元年(1926)までかきつづったものである。これは「捨身」生活を行うに当たって、内省を適宜したためたものである。これには年月がかいてあるものもあれば、ない記述もある。
 これに対して日記は博文館刊行の登用日記をつかったもので、ほんらいどれほどの期間記録しつづけていたのか不明だが、現在、大正9年から大正14年までの六冊が確認される.ただ残念なことに記載されていない日が少なくない(21)
 しかし僅かな記載のなかに、断片的にではあるが、尾崎に関する記載があった。これによって尾崎と天香の行動を追ってみよう。
 「日記」によれば、天香が大正13年に初めて舞鶴へ入るのは1月6日のことである。この日の本文は白紙だが、欄外にのみ「舞鶴ゆき、新舞つる坂根方宿」と簡潔な記載がある。ちなみに1月5日には、やはり欄外に「神戸三宅右一方へゆく、杉本方泊」とあり、前日は京都市の「自宅」にいたことが分かる。西田は1月6日に新舞鶴「現舞鶴市東舞鶴地区」にむかったのである。それは何のためであろうか。またこれと尾崎は関係があるのであろうか。
 「日記」翌1月7日項には、やはり欄外にのみ記載がある。「中舞鶴要港ゆき、中舞鶴渡辺方宿」とあり、翌日は新舞鶴から中舞鶴へ移ったことしか分からない。ところがこれに対して、「天華香洞録」第28冊には、1月7日の日付とともに詳細な記載がある。少し長いが、初出の史料であるため引用したい(句読点・傍点は筆者が便宜上付した。以下、「天華香洞録」、「日記」の引用のみ同じ)。
 
(前略) 1月7日中舞鶴に於て。6日新舞鶴の有志に請せられて講演せしに今日ハ偶然一日の閑を得てもと軍港でありし舞鶴の要港を訪ふこととなりたり。四駆逐艦と此度解体さる香取鹿島の二戦闘艦を横にながめて上陸工作部に入る。部長ハ旅順閉塞隊当時の勇士正木少将なり。招かれて一場の講演を工作部の生徒ニなしたるに全部の部員職工四五千人の為めに求められ四回に分けて一時間宛のおはなしをする。今夜渡辺氏方ニ宿らせてもらふ。明日ハ水交社にて要港司令官百武中将以下幕僚将校及家庭の人の為めに話せとの事也。もちきし手紙に返事をかくとき新庄中佐来訪あり。十時帰らる、雪降るもよふ。一人また書面を認む。十二時をきいてねる、同行之東海林、尾崎両氏は舞鶴へゆかる。二人のおはなしをきくひま少し。せわしき事よ。尾崎氏は離脱三昧の人、俳句に熱心なり。(後略)
 
これによって、舞鶴へは東海林某とともに尾崎を同伴していたことが明らかである(22)
 ところで注目すべきは、天香が要港部工作部(旧海軍工廠)から依頼されて、精力的な講演活動をこなしていることである。
 大正期の舞鶴の海軍工廠では、大正四年に友愛会の支部が結成されていたが、他地区の支部が労働争議を起こしたり、七年の米騒動に工廠の職工が中心になったりしたので、同年に軍からの圧力をうけ活動停止状態に追い込まれていた。労働運動の発展をおそれた軍当局は、大正10年に修養団なる全国的な修養組織を誘致した。修養団は、感謝と礼儀、孝行を道徳の基本とする組織で、工廠内でも講演会がたびたび開かれ、数百人の職工が正式に加入していた(23)
 いうまでもなく一燈園も「争いのない生活」を求めて、「無所有・奉仕」を行う修養組織である。うがった見方をすれば、工作部での天香の講演も、労働運動防止のため、軍当局から期待されてのものであったともいえる。
 さて天香と尾崎の行動に戻ろう。右記史料は、1月6日の講演のスケジュールにはふれないが、翌7日については細かくふれる。船にて中舞鶴に移ったのち、工作部の生徒に一場の講演をし、さらに四・五千人に対して四回にわけて一時間ずつ、つまり四時間の講演をしたことを記録している。また翌日も水交社にて百武三郎ら将校やその家族のためにまたも講演が依頼されていたようである。この講演量は尋常ではない。
 尾崎は、約八ヵ月後の9月31日付の住田蓮車宛の書簡のなかで、
 
 (前略)舞鶴にお伴した時、一夜寝てから、天香さんが「尾崎さん、あなたは私がかく地方で講演するのをどう思ひますか」と問はれたから、直に、「私としては非常に面白くないと思ひます。ヂッとして坐はって居られるあなたを欲します、」と答へた事がありました。(後略)
 
と心情を吐露している。たしかにこの講演の量は、尾崎が不満を感じるに充分であろう。
 ちなみに「一夜寝てから」という記憶に誤りがなければ、舞鶴到着の翌日の1月7日のできごとといえる。するとこれが、「天華香洞録」に記された「おはなし」の一部といえる。
 それにしても天香はなぜ自身の講演活動に尾崎らを同行させたのであろうか。これについては天香の記録は沈黙する。
 ところでこの行事に関与したと云う山崎久蔵なる人物が、昭和41年(1966)に発表した回想録がある(25)。すでに刊行されたものであるが、管見では既往の尾崎の研究で内容を紹介したものをみない。しかも内容には天香の記録を補足する興味深いものがある。42年ものちの回顧であるから、細部には記憶違いや事実誤認があると想像されるが、それを差し引いても、活用する価値ありと心得る。それによれば、
 
 (前略)舞鶴小学校の同窓会で、西田天香さんの講演をお願いしたいと言うことになりその旨を京都の一灯園に通知したところ、天香師からの返事に講演は引受ける、だが一灯園の精神は講話にあるのではない、その精神を行ずる生活にあるから同行の一人を派遣するのでよろしくとあって、舞鶴に瓢々乎として来訪されたのが尾崎放哉氏であった。(後略)
 
とある・講演を依頼されたとはいえ、天香は一燈園生活の実践をしてみせなくてはならない。その役目をする代理人として、東海林と尾崎が同伴されたというのであった。納得のいく話しである。
 なお山崎は、何日のこととは記さないが、「舞鶴小学校」での尾崎の「托鉢」の様子を伝えている。天香の講演は「舞鶴小学校」で行われたあと、それが縁になって、先にみた工作部での講演をすることになったらしい。工作部関係者への講演が、到着の翌日以後に行われることなどを考えると、到着の当日「1月6日」、「新舞鶴の有志に請せられ」た講演こそが、「舞鶴小学校」での講演と思われる。なお「舞鶴小学校」とあるのは、新舞鶴尋常高等小学校の誤りであろう。
 
(前略)小学校での作業は、屋内運動場の天窓の硝子掃きであったが、冬休み中であったのかも知れない、子供一人も居ない広々とした運動場に梯子をかけて、悠々として硝子を拭き、ふきとった透明なガラス越しにうつる北国の空、空の下にうつる山脈、北の海を見入って居られたのが、深く印象に残っている。(中略)作業の終った夕方であったと思う。尾崎さんは、この町には俳句をやっている人は居ませんか、と問いかけられたので、私は知らない旨を答えると共に、当時の万朝報、朝日などの俳壇の選者の名をあげて、その作風について尋ねたところ、さあ、今の儀では、そうした方々の句も行き詰りを見るでしょうと。この一句に並々ならぬ俳人かと直感したのであった(26)。
 
ところで、先に引用した「天華香洞録」は、つづけてきわめて輿味深い記事を残している。
 
一月八日。はたして雪ふる、からすなく、静坐する、よいきもち、

 雪の朝しっかりきいた烏の声。(後略)

 
この日の朝、天香も俳句をよんでいるのである。尾崎は「入庵雑記」に、
 
(前略)或日、天香さんと話して居たとき、なんの話からでしたか、アンタは俳句を作られるさうですな、と云ふ事なので、ええそうです。どうです、一日に百句位作れますか?さすがの天香さんも、俳句については矢張り門外の人であったのであります(27)。(後略)
 
と、天香の無理解を揶揄していた。その天香が俳句を読んでいるのである。
 しかし実は天香が俳句をよむのはこの時だけではない。それどころか、そのたしなみは古く、すくなくとも明治37年4月段階で検出されている(28)。「天華香洞録」にはときおり、そういった天香の俳句が記載されている。あるいは尾崎は、天香に俳句のたしなみがあったことを知らなかったのかも知れない。しかし尾崎らとともに舞鶴にきているその時に俳句を読むというのは、きわめて興味深い。あるいは尾崎の俳句熱が、心得のある天香の心を刺激したといつてもいいすぎではなかろう。
 さて翌8日の一行の行動をみていこう。「天華香洞録」は、
 
朝の食事はうみたての玉子、ひきしまるはうれし、黄緑江の名物なりとて白魚のいかだ干しも添へらる、(後略)
 
と朝食の内容を克明に記したあとは、まったくその日の行動については記載をやめてしまう。今度は「日記」に目を移そう。この日は欄外のみならず、本文にも記載がある。
 
 午前雪ふる、水交社より自働(ママ)車来ル、渡辺氏外一人と共に往く、百武司令部長官中将正木工作部長少将外将校達約五十名の為メに講演約二時間半、食堂に入り午餐を受け、直ちに自働車にて舞鶴迄送ってもらふ。午後一時より女学校に於て舞鶴婦人会の為めに約二時間講演、水谷氏の尽力多し、東海林、尾崎両子托鉢、夜尾崎氏ハ中舞鶴要港へ托鉢の為め水谷氏と共ニ舞鶴泊、余ハ東海林氏と同道帰京。
 
この日も天香の多忙な講演はつづく。海軍の社交施設水交社で将校約50人に対して二時間半の講演を行ったあと、昼食休憩があったとはいえ、舞鶴(現西舞鶴地区)の府立舞鶴高等女学校でも、舞鶴婦人会のために、またもや二時間の講演をこなしている。あわせて四時間半である。前日以上のハイぺースである.その間、尾崎と東海林は、場所は不明なれど、「托鉢」を続けていた。まさしく天香の語る一燈園生活を、実証する役目であった。
 こうして三日にわたった天香の講演は終わり、東海林とともに京都へ帰った。しかしどういう事情なのか、尾崎のみ中舞鶴での「托鉢」のためそのまま残ることになった。
 翌九日からの尾崎の「托鉢」は、先述した一月一○日付の尾崎の書簡によって、おおよそが分かる。すでに周知の史料のため引用しないが、行論上不可避なので、簡潔にまとめておこう。
 それによると、工作部長正木義太や課長武久某と面会し、花木通りにあった敬業寮なる職工の宿舎や、「学校」の掃除、工作部の「托鉢」を託された。それは水交社の掃除や、職工の自転車、履物の掃除を申し出たにもかかわらず、断られたためらしい。工作部内の家を取り壊した跡で、鍬とシャべルで労働したが、力仕事のきつさに閉口する。それゆえ京都の天香に対して、力ある若手の救援を依頼し、最後に渡辺、水谷・山崎なる三名の「健在」を伝えている。以上が本状の要旨である。なお敬業寮は、当時の尾崎の宿舎でもある(29)
 「渡辺、水谷、山崎」について補足すると、「渡辺」は、おそらく1月7日に天香へ宿舎を提供した人物と思われる。「水谷」は、8日に尾崎とともに中舞鶴へ移った人物であろう。「山崎」は、先に回顧を紹介した山崎久蔵である可能性が指摘できる。
 すでに述べたように、この尾崎の手紙に対して天香はどう反応したのか、また尾崎はいつまで舞鶴「托鉢」を継続したのか不明であった。
 これについては、尾崎の世話をしていた正木義太が、1月14日付けで天香に宛てた書簡が残されている(30)。長いものだが、やはり全くの新出史料であるので、その全文を紹介したい。
 
 拝啓、益々御清適之段賀上候。過日は見習職工教習所並ニ工場内ニ於て、貴重なる時間を割き御講話被下難有御礼申上候。頃際御頼み致候托鉢之件につきては又又種々御配慮を煩し御厚志之程難有御礼申上候。本托鉢につきては早速尾崎秀雄氏を煩し今又三上和志氏を派遣致され誠に御配慮深謝之次第に有之候。当工作部における拓鉢を御頼致候は職工静神教育上多大之好結果を得る為にして清新修養之善導たらしめんと存候次第ニ有之候。而して実際に当って見れば托鉢者之誠意乞顕彰ナろ世事乞鳥出ナ事牡出乗ぞ乃多数職工之中に好意を以て迎へざるものもあるべきやと懸念せられ候故此際は之れを以て打切り尾崎氏は今明日之中に氏の好都合なる日ニ帰京せし三上氏は数日托鉢を願ひ適当なる方法を見出せば別問題然らざる節ハ数日之後一先帰京せられ更ニ好方案を案出せし時御願致す事ニ致度。追而尾崎氏之宿泊セル敬業寮之見習職工は氏を敬し喜び掛距てなく種々之質問等も致し幾分一燈園之光に浴したるかと感せられ候ハ小生之喜ぶ処にして謹んで一燈園同人に敬意を表する次第ニ御座候。拝具。
  一月十四日
             正木海軍少将
 西田天香師
 
 この書簡は、前記の疑問に答える内容になっている。すなわち尾崎が残った理由は、工作部職工に「精神修養之善導」を行うためであるという。注目すべきは三上和志という人物がまもなく舞鶴に現れたことである。三上は大正10年に一燈園同人になった若者で、当時23歳である(31)。尾崎が発した「若い力のある同人の救援」といえよう。天香は尾崎の訴えに答えたのである。
 しかし工作部は、一燈園同人の労働を必要としなかった。三上も含めて、急遽尾崎は京都に戻ることになったのである。「托鉢」を依頼しながら仕事がないという点や、三上が到着するや否や退去を決定している点はたいへん奇妙である。
 酒の失敗が多いことで知られる尾崎であるため、舞鶴でも類似の事件を起こしたとも考えられ無くもないが、「敬業寮之見習職工ハ氏を敬し喜び掛距てなく種々之質問等も致し」ていたと言う点や、山崎の回顧にも酒の失敗に関する話題がないことから、舞鶴ではそういった事件はなかったと思われる。
 あるいは正木が危倶するように、職工のなかに一燈園の修養活動へ反発をもったものが現れていた可能性が考えられようが、詳細は不明である。
 ともあれ、こうして不明だった舞鶴での尾崎の生活の詳細が明らかになった。滞在期間については、正木によると、1月14日か翌15日に舞鶴を発ってもらうつもりとある。予定通りにいかず、いくらか延びたことも考えられるが、後述のように、1月21日には、すでに別の托鉢地にいることが分かっており、実際にもそれほど遠くない日に京都へ帰ったと思われる。すると尾崎の舞鶴滞在期間は、10日〜2週間だったのである(32)
 
 3、京都府久世郡・神戸市
 
 つづいて舞鶴から戻ったのちの尾崎であるが、知恩院塔頭常称院に移るまでどこで托鉢していたか、これについてもこれまで全く不明だった。しかし「日記」には、その後の尾崎を知る記事が残されていたのである。
 「日記」および「天華香洞録」によれば、舞鶴から戻った西田はあいかわらず多忙であった。とりわけ多くの時間をさいて立ち寄っていたのが、京都府久世郡である。当時、同郡の佐山村・寺田村・富野荘村などでは「城南小作争議」と呼ばれる、九ヵ月に及んだ小作争議がおきていた(33)。その紛争をまとめるために、1月13日以後・仲裁にたったと思われる元久世郡会議長で、当時佐山村長・郡農会長を兼任していた田村秀太郎や、書記の川北某、寺田村の寺田小学校長福森民次郎などが、天香に救済を求めたのである。
 天香はこれに応じて、佐山の「村内禅寺」(大松寺)や、佐山小学校、富野小学校、寺田小学校など各所で精力的に講演を行う一方、同行の同人に同じく各所で「托鉢」を命じた。天香は講演するにとどまらず、求めに応じて、地主や小作人の別なく応接している。2月14日には佐山農民組合同志会の幹部7〜8名とも会っている。天香の思いはどちらに荷担するものでもなかった。
 
(小作者はー筆者注)徹底せるものならねとも地主に対しては強敵なり。若し地主おひかりニ触れなば勝つべし。小作者おひかりにふれなば勝つべし。此勝利ハ自利々他の勝利なり。他の方法は平凡にして自利々他とハならす。園生活のありかたみを思ふ(34)
 という姿勢であった。「おひかり」とは、「諸宗の神髄を礼拝」する天香にとって、「古今聖者の光」すべてを意味する(35)。いわば「おひかり」を自らの理想の世界と位置づけていたのである。天香と一燈園のありようを考える上で、「城南小作争議」とのかかわりは大変興味深い。
 実はその意味深い場所に尾崎がいたのである。「日記」1月21日に「樋口、尾崎、大津三氏托鉢」とある。尾崎も久世郡の「托鉢」に動員されていたのである。翌22日も「尾崎、大津二氏ハ富野の学校ニ残り托鉢」とあり、富野小学校で継続して「托鉢」していたことが分かる。はじめに、「入庵雑記」に列記された、当時の一燈園同人の托鉢先を紹介した。そのうち「ウドン屋」と「軍港」が、尾崎自身の「托鉢」地とすでに指摘したが、つづく「小作争議」もまた、彼の「托鉢」した「城南小作争議」を指したものだったのである。
 しかし「城南小作争議」における尾崎の記事は、この二日のみでとぎれる。他の同人、たとえば樋口や大津が、1月13日以来、かなりの長期間「托鉢」に従事していることを考えると奇妙な気がする(36)。単に記録されなかっただけであろうか。
 その後も長く「城南小作争議」はつづき、天香と仲裁者との交流は密接につづけられる。天香と一燈園の思想は仲裁側にいかなる影響を与えたのであろうか。天香と密接に交流していた福森民次郎の寺田小学校では、2月20日、21日の両日、小作者の児童が結託して登校拒否を行うという事態がおきる。これに対して校長福森は、職員会議において、「絶対無抵抗主義」「平素の態度をかえない」ことを強く要請し、校長以下職員や、直接関係のない高等科の生徒達が、休校児童の家を一軒一軒廻って登校を説得、そのため二日目には全児童の登校が実現したという(37)。「絶対無抵抗主義」というのは、まったく一燈園同人の姿勢を彷彿させる。天香や一燈園同人の影響といってよかろう。
 さて寺田小学校児童の同盟休校のおきた2月20日、三たび尾崎の名が天香の日記に記録される。
 ○尾崎氏神戸より帰ル、托鉢の仕振りについて相談する
 これにより、尾崎は「城南小作争議」の渦中の久世郡を離れて、神戸に行っていたことが分かる。2月20日は、尾崎が富野小学校で「托鉢」していた1月22日からかぞえて一月もたっていない。その間に二ヶ所以上も「托鉢」地を変えていることになる。その変更の早さに注目される。他の同人の動きと比して、決して一般的であったとはいえまい。神戸の托鉢とはどこであろうか。「托鉢の仕振りについて相談」したとは、何かいわくがありそうである。
 そこで想起されるのが、のち須磨寺期に、尾崎が親しく立ち寄っていたという「神戸の西田さん」である。大正14年1月ごろ、尾崎はそこで酒による不始末をおかしたらしい。同年1月18日付の天香から尾崎に宛てた手紙は、その事件のあと書かれたもので、しばらくは「神戸の西田さん」宅に立ち寄らないように、とたしなめる記述がある(38)。この事件やそれを伝える手紙は、天香の細心の心配りを評するときに使われる著名なものだが、尾崎がいつどういう形で「神戸の西田さん」と交流が始まったか全く不明であった。おそらく一燈園期に交流を始めたことは間違いなかろう。あるいはこのときの神戸市での「托鉢」とは「神戸の西田さん」であったかも知れない。
 なお「神戸の西田さん」と表記してきたが、兵庫県神戸市東須磨の西田慶太郎夫妻のことと考えられる(39)。天香と慶太郎との交際は古く、少なくとも「托鉢」生活を開始した明治37年12月にまでさかのぽる(40)。そこでは西田商会の慶太郎と登場し、事業を行っていたことが分かっている。西田慶太郎宅はその後、神戸一燈園の所在地として使われる。須磨寺期の尾崎が、友人平岡七郎(後述)を「神戸一燈園」へ見送っていること等も考え併せると、尾崎が訪れていた「神戸の西田さん」とは、西田慶太郎夫妻と考えるのが最も適当と思われる。
 ともあれ以上から、舞鶴退去後、知恩院塔頭常称院に入るまでの二カ月の間に、少なくとも京都府久世郡と兵庫県神戸市に「托鉢」に出ていたことが明らかになった。残念ながら常称院を退去してから須磨寺に移るまで、また須磨寺以後、どこでどのような托鉢を行っていたかは、史料を見いだせず不明である。
 
 4、尾崎が天香へ求めたものーむすびにかえてー
 
 尾崎は天香に決死の覚悟で入門したはずであった。ところが、一燈園同人の名目が残っていたとはいえ、わずか四カ月で他所へ退去してしまった。これはなぜなのか。尾崎にとっての天香とは何であったのだろうか。当時の天香や一燈園の本質を探る問題と思われるので、最後にこれを検討し、むすびにかえたい。
 尾崎の天香観は、大正一三年五月頃知り合ったと推定されている住田蓮車宛の書簡のなかに断片的にみいだすことができる。それをみると、すでに指摘のあるように、おおよそ懐疑的であることが分かる。例えば、「中学校も出ていない」天香に対して、学がないから「少々学問した年月が長かった者」の気持ちを理解しないと批判する(41)
 ところがこれは大きな誤解である。「中学校も出ていない」は天香一流の「謙遜」である。というのは、たしかに小学校卒業の学歴しかもたないが(42)、天香は一○代後半に、当時まだ珍しかった英語を、同志社系の牧師堀貞一やバートレットから学んだり(43)、「捨身」生活開始後も、独学で、邦訳のプラトン全集や内村鑑三、加藤弘之、井上哲次郎、真宗大谷派の僧近角常観などの論説、「平民新聞」などを読破する「インテリ」なのである(44)
 先に、天香に俳句のたしなみがあったことを知らず揶揄した話しをのべたが、これも誤解がもとになった非難である。好意が薄くなっていたことが原因であろう。
 もちろん入園以前に懐疑的であったなら近づくはずはない。入園後、徐々に天香から心が離れて行ったのであろう。
 尾崎が天香に入門することになった直接原因は、主著「懺悔の生活」に感銘を受けたためと思われる。そこに描かれた天香像は、「不言実行」を地で行く「草の根」の人である。ところが舞鶴で目撃した天香は、そうではなかった。大半の「托鉢」を、弟子たる一燈園同人に任せて、長時間にわたる講演を日に何度もこなす「名士」であった。それに尾崎が徐々に失望していったものと思われる。
 尾崎が心ひかれた一燈園同人は、住田蓮車と平岡七郎であることは小山貴子が明らかにしたところである(45)。なぜ彼らにひかれたのか。小山は、平岡について、尾崎と酷似した境遇であったためと理解した。それに加えてもう一点指摘しておきたい。
 それは住田と平岡が、天香が失おうとしていた「路頭」生活の実践者だったからであろう。「路頭」生活とは、定まった居住地をもたない生活を意味する。天香も「捨身」生活開始からまもなくは、「路頭」生活を行っていたといえるが、大正末年には、すでに鹿ヶ谷道場や、杉本方などいくつかの「自宅」をもっていた。
 それに対して住田や平岡は、一燈園籍をもっているとはいえ、「お遍路」の姿で全国を行脚する「路頭」生活者であった(46)。のちに平岡が不幸にも電車事故で轢死するのは、まったく「路頭」生活中のできごとであった(47)
 ところで大正14年9月1日、天香もまた「自宅」であった杉本方(48)を突然退去し、「路頭」生活を始める(49)
 大正14年9月22日の尾崎の住田宛の手紙に、
 
 天香さんのお話承って、非常に又嬉しく思ひます(中略)私は天香さんが、愈、所謂本格の道に這入られ事を非常に嬉しく思ひます。ソレデこそ我が天香師であるといふやうな気持がします。崇高の感が出て来ます(50)
 
とあるのは、この出来事に対して述べたものと思われる。天香に期待する一端がこの点にあったことは明白である。ところが天香は、約一ヵ月後の九月下旬には、上京区烏丸頭小山下総町五番地(当時)の「新居」に入ってしまうのである(51)
 またもや「自宅」をもった天香(52)に、尾崎がどのような感想を抱いたか定かではないが、そのほかにも、
 
又ナンカ「本」を出版されるために原稿を書いて居られるやうな事は万々あるまいとは思ひ、且希望する次第であります。書くことは不必要であり、シャべル事は蛇足ではありませんか(53)
 
という記事があり、やはり目立つ天香を好まず、不言実行を期待している。これは決して尾崎だけではなかった。同様の非難は旧友からも天香に浴びせられていたのである(54)
 しかしそれをよそに、さらに天香は「飛躍」してゆく。尾崎の「希望」を裏切って、その年には「懺悔の生活」と「托鉢行願」につづく第三冊目の著作「入牢の心を」、翌年にはさらに「一燈園の家風」「近代文化と一燈園」など二冊を回光社より刊行する。また「新居」に入るとまもなく、私塾をつくり、女子教育、子弟教育に乗り出す(55)。さらに尾崎が亡くなる大正末年には、招聘されてはじめて海外への「托鉢」を行う(56)。以後その名声は世界へ広がってゆく。
 尾崎と天香が出会った時期は、以上の点から、天香と一燈園が従来の姿から大きく変貌しょうとする転換期にあったといえる。それゆえ「懺悔の生活」にみられた「原初」像に憧れた尾崎は、「転換」の方向が納得できず、天香のもとを離れざるをえなくなったと理解できよう(57)
 それにしても一燈園と西田天香については未解明な点がきわめて多い。冒頭にふれた天香の多彩な人間関係は、日本近代に多様な影響を与えたと容易に想像がつく。その実態解明を、さらに心がけてゆきたい。
 
「付記」
 筆者は俳句はもとより、尾崎放哉研究についても門外漢であるが、先学からの刺激を頂いて、一燈園研究の立場から検討を加えたものである。それゆえ尾崎に対する過誤が予想される。識者の叱正を請うものである。
 小稿作成にあたって、多数の方々のお世話になった。とりわけ資料収集に多大な尽力をいただいた香川県土庄町町教育委員会の森克允氏、関西外国語大学の藤津滋生氏、随雲社の下村鳴川氏、舞鶴での尾崎の遺跡についてご教示頂いた福井県敦賀市の常高寺住職伊藤一樹氏、土庄町の井上泰好氏、素稿を閲読くださった市立長浜城歴史博物館学芸員の太田浩司氏、在職中に自由に史料を閲覧させてくださった一燈園資料館「香倉院」館長の岩測万明氏、惜しげもなく多くの一燈園に関する知識を下さった相徳子氏、藤田民子氏をはじめとする一燈園同人の皆さんに心よりのお礼を申し上げたい。
 
 
(8)尾崎の生涯の時期区分のうち、一燈園期については、瓜生鉄二の提起した大正12年(1923)11月から洛東知恩院塔頭常称院に移る大正14年3月までが通説となっている(「流浪の詩人尾崎放哉」、新典社、1986年)。しかし常称院において、一燈園同人の身分のまま居住していたことは、尾崎自身の言で明確である(荻原井泉水宛書簡・大正13年3月25日付、〈井上三喜夫編,尾崎放哉全集」一以下「全集」]増補改訂二版303頁、弥生書房、1988年〉)。当然のことながら常称院を追い出されたのちは鹿ケ谷道場へ戻っている。尾崎が小豆島・南郷庵で述べた一燈園でのさまざまな回顧が、いつの時期のものか明確にされていないため、常称院以後の可能性は充分にある。それゆえ、常称院に移ったのちを「一燈園期」からはずしてしまうには間題があると思われる。
 なお1月10日付書簡には、尾崎が「学校」で「托鉢」していたとある。しかし横須賀の海軍機関学校が舞鶴に移転するのは3月のことで、尾崎が「托鉢」した「学校」は不明だった。今回、正木義太の書簡によって、「見習職工教習所」と分かったが、その位置や性格などは不明のままである。
故平岡七郎氏。五十一番の礼所からお便りがあったきり音信がないので心配していましたが一日に住田さんが突然帰園になって、お話が斯ったのです。先月廿四日何だか平岡さんの事か気になって母様のお宅へ伺った所半時間程前に変死の通知が来て大さわぎの最中だったのだそうです。それで頼まれて現場に赴きその帰り道だったのだそうです。今治から三里程へだたった田舎を十月十四日の七時前夕暗が丁度迫って来る頃を足の悪い眼もはっきりしない一人の巡礼がトボ/\歩いていました。魔の口のやうなトンネルが約一丁半程向ふにあって桑畑の向ふに踏切りがありました。田舎のこととて勿論番人なんかついていません。道が曲っているので巡礼のお爺さん知らないで線路上に出て了ったのでせう。不慮の死はそこにかもされたやうです。無常迅速、老いた母様の嘆きをお察し致します。
(句点を補った部分がある)
という平岡の死亡記事があり、そこから七郎という名であったことが判明する。
 
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