尾崎放哉年譜    編集 岡屋昭雄 仏教大学教授

明治十八年 1885 ー歳 注 年齢は数え年であらわす。
一月二十日、鳥取県邑美郡吉方町百四十五番地「現、鳥取市立川町一丁目九十七番地」に生まれる。父・信三、母なかの次男として生まれる。長男直諒は明治十三年、六歳で天折のため実質的には秀雄が長男となる。父・信三は当時鳥取地方裁判所の書記をしていた。

明治二四年 1892 七歳
立志尋常小学校「当時は四年制であった」に入学する。

明治二八年 1895 十一歳
鳥取高等小学校「四年制」に進学する。明治三〇年 1897 十三歳鳥取高等小学校二年を終了して、鳥取尋常中学校に入学する。この年、姉・並は山口秀美を養子として迎える。

明治三十二年 1899 十五歳
鳥取県第一中学校「校名変更」第三学年。この頃から短歌や俳句をつくるようになる。父・信三鳥取地方裁判所監察書記長を退き悠々自適の生活に入る。

明治三三年 1900 十六歳
鳥取第一中学校第四学年、この年に創刊された学友会雑誌「鳥城」に俳句を寄稿する。また岩田勝市、三浦俊彦、山崎甚八等と「芹斎会」を結成し、和歌も残す。雅号として、梅史、芳水、梅の舎等を用いた。この年、沢芳衛の一家が父の鳥取帰任に伴い、大津市から引っ越して来る。「芳衛は鳥取女学校に編入する。放哉と初めて逢うことになる。」
このため、吉方町からの生家を一家のために譲り、立川町四丁目に移住する。義兄、秀美はここで耳鼻咽喉科病院を開業することになる。明治三四年 1902 十七歳春、西谷繁蔵、福光美規、山群八等と「白薔薇」「単行本」を発行する。

明治三五年 1902 十八歳
三月、鳥取県立第一中学校を卒業し、九月、第二ロ同等学校文学部に入学「当時の校長は狩野亨吉」 一部の甲「英語」の組であった。

明治三六年 1903 十九歳
この年再興された一高俳句会に参加し、井泉水「当時愛桜と号していた」と相知るようになる。五月藤村操が「厳頭之辞」を残して日光華厳の滝に投身自殺を敢行する。放哉も二年後に随筆「俺の記」を書き、「即、生と死、差別勘定零となる」との虚無的な心情をあらわとする。この頃漕艇に熱中し、毎日のように隅田川を徒歩で通学する。
四月、沢芳衛、日本女子大学国文科に入学し、小石川区表町の坂根方に下宿することとなる。

明治三七年 1904 二十歳
この年、夏目激石に「バィス・バーサ」をテキストにして、英語を一年間習い、激石が好きになったという。二月十日、日露戦争勃発する。

明治三八年 1905 二一歳
一月三日、旅順が陥落する。その校内祝賀会に於いて、塩谷青三の祝詩を二村光三と朗吟する。三月、「一高校友会雑誌」に三天坊の筆名で前掲の「俺の記」を書く。
五月二十七日、連合艦隊が日本海でロシアのバルチック艦隊を破り、その校内祝賀会で山本幹六の長詩を吟じる。六月、第一高等学校を卒業する。「当時は六月に卒業することになっていた。」九月、東京帝国大学法学部に入学し、難波誠四郎、田辺隆二、二村光三と放哉の四人で千駄木に家を借り、「鉄耕塾」と名づけて自炊するようになる。

明治三九年 1906 二二歳
二月、「ホトトギス」に二句入選する。四月、「国民俳壇」に一句入選。三月頃、「鉄耕塾」を解散するが、田辺と放哉は、そのまま「鉄耕塾」に踏み留まって、夏の試験まで寵城する。この間、三月に日本女子大学を卒業した沢芳衛に結婚申込みをするも、芳衛の兄、沢静夫「東京大学医学部卒業」に血族結婚を医学上の見地から反対され、江ノ島への道行を図ったこともあった。結婚は断念するも、その後も、母校に残っていた芳衛との交際は続けていた。
放哉は、「鉄耕塾」の生活を打ち切り、難波誠四郎と本郷森川町近藤方に下宿する。この頃から、法学よりも、哲学、宗教に興味・関心を抱き、釈宗演在世中は鎌倉の円覚寺にも通うようになる。酒に溺れるようになり、虚無的な気分にもなつたといわれる。

明治四〇年 1907 二三歳
この年、「ホトトギス」十二月号にこれまでの「芳哉」にかわって「放哉」の号を用いた句が掲載される。

明治四一年 1908 二四歳
春、本郷区西片町、岩本方に難波とともに下宿したらしい。

明治四二年 1909 二五歳
十月十六日・東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する。「鳥取市にある興禅寺の住職・栄無得氏が、祭壇の下の戸棚を整理しているとき見つけ出したもの。このことも色々な推測が可能となる。」卒業式は毎年六月に行われていたが、放哉は本試験を受けずに、追試験を受けて卒業する。この卒業証書も四年間取りに行かなかったものである。

明治四三年 1910 二六歳
七月・尾高次郎「渋沢栄一の娘婿、第一銀行監査役」東洋生命保険株式会社社長となる。専務には、第一銀行から佐々木清麿を迎え入れる。業務を刷新し、契約高、資産内容ともに充実する。この年、放哉は、日本通信社に入社するも、一か月で退社したものと思われる。

明治四四年 1911 二七歳
前年度かこの年の初め・東洋生命保険株式会社に内勤員として就職する。穂積陳重、西谷金蔵等のバックアップがあった。経理部長の大原寓寿雄の下、契約課に所属する。一月二十六日、鳥取市坂根寿の次女、馨「十九」と結婚する。やがて夫婦で上京し、小石川での新婚生活を始める。四月、井泉水は、「層雲」を創刊する。

明治四五年・大正元年 1912 二八歳
九月十八日放哉の父信三の隠居に伴い、秀美・並夫妻分家し、鳥取市本町三丁目十番に移ることになる。

大正二年 1913 二九歳
六月、東洋生命の事務分掌規程変更の結果、契約係長となる。

大正三年 1914 三〇歳
東洋生命株式会社大阪支店次長として赴任し、天王寺に住むことになる。支店長。中田忠兵衛は、本社内出張所長、募集課長などを経て大阪支店長となった人物であり、放哉との関係がうまく行かなくなったようである。「最初の不平」を生じ、うさを晴らすべく、よく遊ぴ、宗右衛門町の茶屋などに外泊するようになる。同じ頃、太陽生命大阪支店長であった難波誠四郎とは親しくつき合った。この時、放哉は坂手港から草壁方面に来ているといわれている。したがって、大正十四年の小豆島に来たのは二度目ということになる。

大正 四年 1915 三一歳
一年足らずで、東京本社に帰任し、東京府下下渋谷根沢に住む。本社内では契約課の仕事をする。十二月「層雲」に初めて放哉の一句が掲載される。

大正五年 1916 三十二歳
この年から層雲社例会や麻布霞町、山岡夢人方での「東京五句集」「鳩心会」等の句会に参加し、俳句づくりに精を出すようになる。

大正六年 1917 三三歳
七月十九日、保険同好会の例会が日比谷公園松本楼において開催され、東洋生命を代表して大原葛寿雄とともに参加した。九月、チアノーゼを呈する三十八度の発熱をする。

大正七年 1918 三四歳
二月一日、これからの俳句は「芸術より芸術以上の境地を求めて進べきだ」との抱負を語る。「井泉水宛書簡」。この当時の放哉のー肩書は契約課課長である。

大正八年 1919 三五歳
この年の四月号をもって、大正四年末から三年余り続いた「層雲」への発表が途絶える。

大正九年  1920 三六歳
二月四日、尾高次郎、東洋生命社長死去。八月、東洋生命、契約高一億を突破する。十月十二日、常務取締役福島宣三が社長に選ばれる。

大正十年 1921 三七歳
この年四月十五日発行の「保険会社々員録」によれば、放哉こと、尾崎秀雄は、調査役兼契約課長事務取扱との肩書となっている。十月一日、社員の異動があり、契約課長事務取扱を免ぜられる。「保険銀行時報 十月六日号」調査役の肩書は残ってはいるものの、契約畑一筋に歩いてきた放哉には、この処遇が不満だったのではあるまいか。放哉の辞職も契約課長を罷免されたことが直接の引き金となっているものと思われる。「最早社会に身を置くの愚を知り、社会と離れて孤独を守るにしかず」との決意をする。

大正十一年 1922 三八歳
東洋生命を退職後、郷里、鳥取に帰り、連日のように鳥取温泉に通い、料亭に溺酔するようになる。「吉村欣二談」。この頃、父親、信三との関係がおかしくなっていると考えられる。四月頃、再起を促す電報「難波誠四郎からではないか、と思われる。」が、東京から届き、佐々木清麿や太陽生命の清水専務から近く創設される朝鮮火災海上保険株式会社支配人との話を聞く。この際、禁酒を絶対守ることを約束させられる。下渋谷の家を処分して、その足で朝鮮京城に渡ることになる。この事業にして成らずんば、「死すか又は僧となるべし」の覚悟であった。
京城に落ちついてまもなく「五月十六日」生母なかが亡くなった。放哉は、新会社の設立準備に奔走中で、「帰レヌ」と打電し、馨を代わりに帰郷させた。このことも放哉には、家に帰ることができない理由・拘りがあるものと思われる。
九月十八日、朝鮮火災創立総会が開催され、河内山楽三が社長に選出された。同社は九月の創立から三か月程で早くも七百万円の契約高を突破し、年内には一千万の大台を突破する勢いであった。不退転の決意で仕事にも意欲的な取組を見せていた。十月頃左肋膜炎を病むことになる。

大正十二年 1923 三九歳
この年の一年より再び「層雲」誌上に放哉の俳句が見られるようになる。「大正八年以降四年間のブランクがあったことになる。」五、六月頃、仕事はこれからという処で、社長から罷免を申し渡される。事前に誓約させられていた禁酒が守れなかったことに原因があったともいわれている。
七月末、満州で一働きをして借金を返さなければ死ぬにも死にきれないとの思いで長春に小原楓を尋ね、寄寓する。長春に着いて四、五日すると発病する。八月末より二か月ばかり左湿肋膜炎のため満鉄病院に入院する。入院中に手記「無量寿仏」を妻・馨に口述筆記させる。暖かい気候に恵まれた伊豆大島に住みたいとの思いを抱くのであるが、九月一日の関東大震災の報を聞いて断念する。
十月頃、妻.馨とともに大連から帰国し、長崎に住む宮崎義雄方に身を寄せる。病後の静養を図りつつ・長崎市内で寺男として住み込めそうな所を探すも見当らず、妻とも別居し、十一月二十三日、京都市内左京区鹿ヶ谷に西田天香が主催する修養団体、一燈園に入れて貰う。
妻・馨は、十二月初旬頃、大阪東洋紡績四貫女子工員寮の寮母と兼裁縫・生け花の教師として住み込むことになる。

大正十三年 1924 四〇歳
三月、一燈園の托鉢は力を要する仕事が多く、身体が続かず知恩院塔頭常称院の寺男となる。四月三日、井泉水と数年ぶりに逢って会食する。その酔余に常称院住職を立腹させる言動をとり寺を追い出される。六月、一燈園で兄事していた住田蓮車の紹介で神戸の須磨寺に入る。
十一月、「層雲」十一月号に井泉水が「放哉君の近作は注意するべきものがある」と高い評価をする。

大正十四年 1925 四一歳
三月、須磨寺の内紛のため同寺を去り、四月十日一燈園に戻る。五月十四日頃、福井県小浜町浅間の臨済宗寺院常高寺の寺男となる。本堂焼失から一年半を経過していたのにもかかわらず寺は再建されずそのため寺は荒れていた。
春翁和尚は、本山、妙心寺から同寺住職の地位を剥奪されていた。経済的にも 急し、放哉は毎日、筍や豆で飢えを凌いでいた。一燈園で親しくしていた小針嘉郎を頼って台湾に渡ることも考えた。
七月、常高寺破産のため同寺を去り、沼津、大阪を経由して京都に戻る。井泉水と常称院の住職を尋ね、下京区三哲にある龍岸寺を紹介される。しかし、肉体労働に耐えきれず、井泉水の仮寓「橋畔亭」に転げ込むことになる。八月十日前後、橋畔亭で北朗も招いて「放哉のための送別の小宴」が催される。
八月十二日、井泉水に見送られて小豆島に旅立つ。八月十三日、小豆島土庄町淵崎の井上一二(文八郎)邸を訪ねる。八月十四日、国分寺の住職・童銅龍純を訪ねる。ついでに丸亀の句会にも参加する。西光寺の住職杉本玄々子の紹介で、南郷庵が空くことが分かり、八月二十日に入庵する。「焼米」と「焼豆」を主たる主食とする、「新生活様式」を考案し、支出の節約を図る。九月一日から「入庵食記」をつけはじめる。九月二十二日飯尾星城子・和田豊蔵来庵、十月二日井上一二、杉本玄々子、放哉の三人が話し合った結果、「南郷庵安住」ということに決まる。
十月二十日はじめて地元の医師木下病院で診察して貰った。「左肋膜癒着」の症状を呈していた。十一月二十六日、内島北朗来庵、十二月二十九日、住田蓮車来庵、十一月三十日、北朗、蓮車ともに帰って行った。この頃からの島の烈風に悩まされるようになる。

大正十五年 1926 四二歳
 「層雲」 一月号より「入庵雑記」の掲載が始まる。「五月号まで五回連載」。一月三十一日、癒着性肋膜炎から来る肺の衰弱、合併症、湿性気管加答児だと診断される。二月二日「湿性肋膜炎、癒着に来る肺結核・合併症湿性咽喉加答児」と宣告される。二月二十三日、旧正月、立石信一来庵、三月十ー日、咽頭結核はすすみ、御飯が咽喉につかえるようになる。
三月中旬、井泉水は放哉を京都に呼ぴ、大学病院で診察を受けさせ、入院させようとするも、放哉に峻拒される。四月七日南堀シゲさんの看病を受け、午後八時頃膜目する。その日の三時に大阪港をたった妻・馨は放哉の最後を看取ることはできなかった。九日、井泉水、北朗、放哉の姉・並が来島し、西光寺墓地に埋葬する。戒名「大空放哉居士」

昭和二年 1927
 四月七日の法要に放哉の遺骨を分骨して鳥取の興禅寺にある尾崎家の墓に納骨する。

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「放哉」南郷庵友の会
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