入庵雑記(大正十四年、十一月五日)
尾崎放哉が小豆島にきて3ヶ月後に書いたものです。一所不在生き方をせざるを得なかった心象を見事に現しているものです。(編者記)
  
   島に来るまで
 
 この度、仏恩によりまして、此庵の留守番に座らせてもらふ事になりました。庵は南郷庵と申します、も少し委しく申せば、王子山蓮華院西光寺奥の院南郷庵であります。西光寺は小豆島八十八ケ所の内、第五十八番の札所でありまして、此庵は奥の院となって居りますから番外であります。己に奥の院と云ひ、番外と申す以上、所謂、庵らしい庵であります。
 庵は六畳の間にお大師様をまつりまして、次の八畳が、居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室であるのです、其次に、二畳の畳と一畳ばかしの板の間、之が台所で、其れにくっ付いて小さい土間に竈があるわけであります。唯これだけでありますが、一人の生活としては勿体ないと思ふ程であります。庵は、西南に向って開いて居ります、庭先きに、二タ抱へもあらうかと思はれる程の大松が一本、之が常に此の庵を保護してゐるかのやうに、日夜松籟潮音を絶やさぬのであります。此の大松の北よりに一基の石碑が建って居ります、之には、奉供養大師堂之塔と彫んでありまして、其横には発願主円心禅門と記してあります。此の大松と、此の碑とは、朝夕八畳に座って居る私の眼から離れた事がありません、此の発願主円心禅門といふ文字を見る度に私は感慨無量ならざるを得ん次第であります。此の庵も大分とそこら中が古くなって居るやうですが、私より以前、果して幾人、幾十人の人々が、此の庵で、安心して雨露を凌ぎ且はゆっくりと寝させてもらった事であらう、それは一に此の円心禅門といふ人の発願による結果でなくてなんであらう、全く難有い事である。円心禅門といふ人は果してどんな人であったであらうかと、それからそれと思ひに耽るわけであります。
 東南はみな塞って居りまして、たった一つ、半間四方の小さい窓が、八畳の部屋に開いて居るのであります。此の窓から眺めますと、土地がだんだん低みになって行きまして、其の間に三四の村の人家がたって居ますが、大体に於て塩浜と、野菜畑とであります。其間に一条の路があり、其道を一丁計り行くと小高い堤になり、それから先きが海になって居るのであります。茲は瀬戸内海であり、殊にズツと入海になって居りますので、海は丁度渠の如く横さまに狭く見られる丈でありますけれども、私にはそれで充分であります。此の小さい窓から一日、海の風が吹き通しには入って参ります。それ丈に冬は中々に寒いといふ事であります。
 
  さて、入庵雑記と表題を置きましたけれども、入庵を機会として、私の是迄の思ひ出話も少々聞いて頂きたいと思って居るのであります。私の流転放浪の生活が始まりましてから、早いもので已に三年となります。此間には全く云ふに云はれぬ色色な事がありました、此頃の夜長に一人寝てゐてつくづく考へて見ると、全く別世界にゐるやうな感が致します。然るに只今はどうでせう、私の多年の希望であった処の独居生活、そして比較的無言の生活を、いと安らかな心持で営ませていたゞいて居るのであります。私にとりましては極楽であります。処が、之が皆わが井師の賜であるのだから、私には全く感謝の言葉が無いのであります。井師の恩に思ひ到る時に私は、きっと、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五を朗読して居るでありませう、何故なれば、どう云ふものか、私は井師の恩を思ふ時、必普門品を思ひ、そして此の経文を読まざるを得ぬやうになるのであります。理窟ではありません。観音経は実に絶唱す可き雄大なる一大詩篇であると思ひ信じて居ります、井師もきっと共鳴して下さる事と信じて居ります。猶、此機会に於て是非とも申させていただかねばならぬ事は西光寺住職杉本宥玄氏についてゞあります、已に此庵が西光寺の奥の院である事は前に申しました通り、私が此島に来まして同人井上一二氏を御尋ね申した時、色々な事情から大方、此島を去って行く話になって居りましたのです、其時此庵を開いて私を入れて下すったのが杉本師であります。杉本師は数年前井師が島の札所をお廻りになった時に、井上氏と共に御同行なされた方でありまして、誠に温厚親切其のものゝ如き方であります、師とお話して居ますと自ら春風蕩漾たるものがあります。私は此の尊敬す可き師の庇護の下に此庵に座らせてもらって居るので、何と云ふ幸福でせうか、──又、同人井上氏の御同情は申す迄も無く至れり尽せりでありまして、是等一に、井師を機縁として生じて来たものであると云ふ事に思ひ到りますれば、私は茲に再び、朗々、観音経を誦さなくてはならない気持となるのであります。
 丁度明治卅五年頃の事と覚えて居ります、其頃井師も私も共に東京の第一高等学校に居りました、井師は私よりも一級上級生といふわけで、其頃は俳句──新派俳句と云った時代です──が非常に盛で、其結果「一高俳句会」といふものが出来、句会を開いたものでした。句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。そこの椎茸飯といふのが名物で、お釜で焚いたまんまを一人に一ツ宛持って来ましたが中々おいしかった、さうした御飯をたべたり御菓子をたべたりなんかして、会費は五十銭位だったと記憶して居ます。いつでも二十人近く集りましたが、師匠格としてきまって、虚子、鳴雪、碧梧桐の三氏が見えたものです、虚子氏が役者見たいに洋服姿で自転車をとばして来たり、碧梧桐氏の四角などこかの神主さん見たいな顔や、鳴雪氏のあの有名な腹燗なんかの事を思ひ出しますのですよ。其当時の根津権現さんの境内はそれは静かなものでした。椎の木を四五尺に切って其を組合せて地上にたてゝ、それに椎茸が生えて居るのを眺めたりなどして苦吟したものでした、日曜日なんかには、目白の啼き合せ会なんか此境内でやったのですから、それは閑静なものでしたよ。
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 処で私は三年の後、一高を去ると共に、此会にも関係がなくなりました、そして井師は文科に、私は法科にといふわけで、一時、井師との間は打ち切られて、白雲去って悠々といふ形でありました、処が此縁が決して切れては居りませんでした。火山の脈のやうに烈々として其の噴出する場所と時期とを求めて居たものと見えます、世の中の事は人智をもってしては到底わかりっこありませんね。其後、私は已に社会に出て所謂腰弁生活をやって居たわけであります、そして茲に機縁を見出したものか層雲第一号から再び句作しはじめたものであります、それからこっちは所謂絶ゆるが如く絶えざるが如く、綿々縷々として経過して居りまする内に、三年前の私の放浪生活が突如として始まりまして以来は、以前の明治卅五六年時代の交渉以上の関係となって来た訳なのであります。そこで、私が此島に参りまする直前、京都の井師の新居に同居して居りました事を少し話させていたゞきませう。井師の此度の今熊野の新居は清洒たるものではありますが、それは実に狭い。井師一人丈ですらどうかと思ふ位な処へ、此の飄々たる放哉が転がり込んだわけです。而も蚊がたくさん居る時分なのだから御察し下さい、一人釣りの蚊帳の中に、井師の布団を半分占領して毎晩二人で寝たわけです。其の狭い事狭い事、此の同居生活の間に私は全く井師に感服してしまったのです。鋒鋩は已に明治卅五六年頃から有ったのではあるが、全く呉下の旧阿蒙に非ず、それは其後の鎌倉の修業もありませうし、母、妻、子に先立たれた苦しい経験もありませう、又、其後の精神修養の結果もありませうが、兎も角偉大なものです、包擁力が出来て来たのであります。井師は私に決してミユツセンと云った事がありません、一度も意見がましい言葉を聞いた事が無いのであります、それで居て、自分で自然とさうせざるを得ぬやうな気持になって来るのであります、之が大慈悲でなくてなんでありませう。
 井師の新居に同居してゐた間は僅の事でしたけれ共、其私に与へた印象は深甚なものでありました。井師と二人で田舎路を歩いて居た時、ふとよく晴れた空を流れてゐる一片の白雲を見上げて「秋になったねえ」といふたつた一言に直に私が共鳴するのです。或る夕べ、路傍の行きずりの小さい、多分子供の、葬式に出逢って極めて自然に、ソツと夏帽をとって頭を下げて行く井師にすぐと私は共鳴するのです。二人で歩いて居て、井師も亦、妻も児も無い人なんだなと思ってつくづく見ると、其の着物の着方が如何にも下手くそなのです、而も前下りかなんかで、それを誰も手をかけてなほしてくれる人も今は無いのだ、何時でも着物の着方の下手くそなので叱られて居た私は、直に又共鳴せざるを得ぬのです。下駄の先鼻緒に力を入れて突っかけて歩くもの故、よく下駄の先きをまだ新らしいうちに壊してしまったり、先鼻緒を切ったりした自分を思ひ出すと、井師が又其の通り、又共鳴せざるを得ませぬ。其外、床の間の上に乗せてあった白袴……恐らくは学生時代のであってほしかったが……一高の寮歌集等々、一事、一物、すべて共鳴するものばかり。僅かの間の同居生活でしたけれども、私にとっては実に異常なもので有ったのであります。
 井師は今、東京に帰って居らるゝ日どりになって居る、なんとなく淋しい、京都に居ると思へば、さうでもないのだが、東京だと思ふと、遠方だなと云ふ気持がして来るのです。私は茲で又、観音経を読まなければならぬ。机の上には、いつでも此のお経文が置いて有るのですから──。扨、私は此辺で一寸南郷庵に帰らせていたゞいて、庵の風物其他につき、夜長のひとくさりを聞いていたゞきたいと思ふのであります。
 我昔所造諸悪業。 皆由無始貪瞋癡。
 従身口意之所生。 一切我今皆懴悔。
 
 
   
 
 庵に帰れば松籟颯々、雑草離々、至ってがらんとしたものであります。芭蕉が弟子の句空に送りました句に、「秋の色糠味噌壺も無かりけり」とあります。これは徒然草の中に、世捨人は浮世の妄愚を払ひ捨てゝ、糂汰瓶ひとつも持つまじく、と云ふ処から出て居るのださうでありますが、全くこの庵にも、糠味噌壺一つ無いのであります。縁を人に絶って身を方外に遊ぶ、などゝ気取って居るわけでは毛頭ありませんし、また、その柄でも勿論ないのでありますから、時々、ふったとした調子で、自分はたった一人なのかな、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。八畳の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たった一つの脊をよせかけて、其の前に、お寺から拝借して来た小さい低い四角な机を一つ置いて、お天気のよい日でも、雨がしと/\と降る日でも、風がざわ/\吹く日でも、一日中、朝から黙って一人で座って居ります。
 座って居る左手に、之も拝借もの…と云ふよりも、此庵に私がはいりました時残って居った、たった一つの什器であった処の小さな丸い火鉢が置いてあるのです。此の火鉢は殆んど素焼ではないかと思はれる程の瀬戸の黒い火鉢なのですが、其の火鉢のぐるりが、凡そこれ以上に毀すことは不可能であらうと思はれる程疵だらけにしてあります。之は必、前住の人が煙草好きであって、鉄の煙管かなんかでノベツにコツンコツン毀して居た結果にちがひないと思ふのです、誠に御丹念な次第であります。此の外には道具と申してもなんにも無いのでありますから誠にがらんとし過ぎたことであります。此の南よりの一本の柱と申すのが、甚形勝の地位に在るので、遥に北の空を塞ぐ連山を一眸のうちに入れると共に、前申した一本の大松と、奉供養大師堂之塔の碑とが、いつも眼の前を離れぬのであります。居ながらにして首を少し前にのばせば、そこは広々と低みのなだれになって一面の芋畑、そして遠く、土庄町の一部と、西の空の開いて居るのが見えるのであります。東は例のこの庵唯一の小さい低い窓でありまして、其の窓を通して渠の如き海が見え、海の向ふには、島のなかの低い山が連って居ります。西はすぐ山ですから、窓によって月を賞するの便があるのみで、別に大した風情は有りませんのです。お天気のよい日には毎朝、此の東の空に並んで居る連山のなかから、太陽がグン/\登って来ます。太陽の登るのは早いものですね、山の上に出たなと思ったら、もう、グツグツグツと昇ってしまひます。その早いこと、それを一人座ってだまって静に見て居る気持ツたら全くありません。私は性来、殊の外海が好きでありまして、海を見て居るか、波音を聞いて居ると、大低な脳の中のイザコザは消えて無くなってしまふのです。「賢者は山を好み、智者は水を愛す」といふ言葉があります、此の言葉はなかなかうま味のある言葉であると思ひます、但し、私だけの心持かも知れませんが──。一体私は、ごく小さな時からよく山にも海にも好きで遊んだものですが、だんだんと歳をとって来るに従って、山はどうも怖い……と申すのも可笑しな話ですが、……親しめないのですな。殊に深山幽谷と云ったやうな処に這入って行くと、なんとはなしに、身体中が引き締められるやうな怖い気持がし出したのです、丁度、怖い父親の前に座らされて居ると云ったやうな気持です。処が、海は全くさうでは無いのであります、どんな悪い事を私がしても、海は常にだまって、ニコ/\として包擁してくれるやうに思はれるのであります。全然正反対であります。ですから私は、これ迄随分旅を致しましたうちで、荒れた航海にも度々出逢って居りますが、どんなに海が荒れても、私はいつも平気なのであります、それは自分でも可笑しいやうです。よし、船が今微塵にくだけてしまっても、自分はあのやさしい海に抱いてもらへる、と云ふ満足が胸の底に常にあるからであらうと思ひます、丁度、慈愛の深い母親といっしよに居る時のやうな心持になって居るのであります。
 私は勿論、賢者でも無く、智者でも有りませんが、只、わけなしに海が好きなのです。つまり私は、人の慈愛…と云ふものに飢ゑ、渇して居る人間なのでありませう。処がです、此の、個人主義の、この戦闘的の世の中に於て、どこに人の慈愛が求められませうか、中々それは出来にくい事であります。そこで、勢之を自然に求める事になって来ます。私は現在に於ても、仮令、それが理窟にあって居ようが居まいが、又は、正しい事であらうがあるまいが、そんな事は別で、父の尊厳を思ひ出す事は有りませんが、いつでも母の慈愛を思ひ起すものであります。母の慈愛─母の私に対する慈愛は、それは如何なる場合に於ても、全力的であり、盲目的であり、且、他の何者にもまけない強い強いものでありました。善人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成仏を…その大願をたてられた仏の慈悲、即ち、それは母の慈愛であります。そして、それを海がまた持って居るやうに私には考へられるのであります。
猶茲に、海に附言しまして是非共ひとこと聞いて置いていたゞきたい事があるのであります。私が、流転放浪の三ケ年の間、常に、少しでも海が見える、或は又海に近い処にあるお寺を選んで歩いて居りましたと云ふ理由は、一に前述の通りでありますが、猶一つ、海の近い処にある空が、……殊更その朝と夕とに於て…そこに流れて居るあらゆる雲の形と色とを、それは種々様々に変形し、変色して見せてくれると云ふ事であります、勿論、其の変形、変色の底に流れて居る光りといふものを見逃がす事も出来ません。之は誰しも承知して居る事でありますが、海の近くで無いとこいつが絶対に見られないことであります。私は、海の慈愛と同時に此の雲と云ふ、曖昧模糊たるものに憧憬れて、三年の間、瓢々乎として歩いて居たといふわけであります。それが、この度、仏恩によりまして、此庵に落ち付かせていたゞく事になりまして以来、朝に、夕べに、海あり、雲あり、而も一本の柱あり、と申す訳で、況んや時正に仲秋、海につけ、雲につけ、月あり、虫あり、是れ年内の人間好時節といふ次第なのであります。
 
   念仏
 
 六畳の座敷は、八畳よりも七八寸位、高みに出来て居りまして、茲にお大師さまがおまつりしてあるのです。此の六畳が大変に汚なくなって居ましたので、信者の内の一人がつい先達て畳代へをしたばかりのとこなのださうでした、六畳の仏間は奇麗になって居ります。此の島の人…と申しても、重に近所の年とったお婆さん連中なのですが、お大師さまの日だとか、お地蔵さまの日だとか、或は又、別になんでも無い日にでも、五六人で鉦をもって来て、この六畳の仏間にみんなが座って、お念仏なり、御詠歌なりを申しあげる習慣になって居ります。
 それはお念仏を申すとか、御詠歌を申す、とか島の人は云ふのです.それで、只単に「申しに来ました」とか、「申さうぢやありませんか」と云ふ風に普通話して居ります。八九分通り迄は皆お婆さん許り……それも、七十、八十、稀には九十一といふお婆さんがありましたが、又、中には、若い連中もあるのであります。そこで可笑しい事には、この御念仏なり、御詠歌なりを申しますのに、旧ぶしと新ぶしとがあるのであります。「旧ぶし」と云ふのは、ウンと年とったお婆さん連中が申す調子であります、「新ぶし」は中年増と云ったやうな処から、十六や十七位な別嬪さんが交って申すふしであります。そのふし廻しを聞いて居りますと、旧ぶしは平々凡々、水の流るゝが如く、新ぶしの方は、丁度唱歌でもきいて居るやうで、抑揚あり、頓座あり、中々に面白いものであります。ですから、其の持って居る道具にしても、旧ぶしの方は伏鉦を叩くきりですが、新ぶしの方は、鉦は勿論ありますし、それに長さ三尺位な鈴を持ちます。その鈴の棒の処々には、洋銀か、ニツケルかのカネの輪の飾りが填めこんでありまして、ピカ/\く光って居る、棒の上からは赤い房がさがって居る。中々美しいものでありますが、それを右の手に持ってリンリン振りながら、左手では鉦をたゝく、中々面白くもあり、五人も十人も調子が揃って奇れいなものであります。処がです、此の両派が甚合はない、云はゞ常に相嫉視して居るのであります、何しろ、一方は年よりばかり、一方は若い連中、と云ふのでありますから、色々な点から考へて見て、是非もない次第であるかも知れませぬ。
 一体、関東の方では、お大師さまの事をあまりやかましく云はないやうですが、関西となると、それはお大師さまの勢力といふものは素破らしいものであります。私が須磨寺に居りました時、あすこのお大師さまは大したものでありまして、殊に盆のお大師さまの日と来ると、境内に見世物小屋が出来る、物売り店が並ぶ、それはえらい騒ぎ、何しろ二十日の晩は夜通しで、神戸大阪辺から五万十万と云ふ人が間断なくおまゐりに来るのですから全くのお祭であります、……丁度、東京の池上のお会式……あれと同じ事であります。その時のことでしたが、ある信者の団体は一寸した舞台を拵へまして、御詠歌踊と云ふのをやりました、囃しにはさき程申し上げました美しい鈴と、それに小さい拍子木がはいります、其の又拍子木が非常によく鳴るのです、舞台では十三から十五六迄位の美しい娘さんが、手拭と扇子とをもって、御詠歌に合して踊るのであります。此島には未だ、この拍子木も、踊もはいって来て居らぬやうでありますが、何れは遠からずしてやって来る事でせう。然し、島の人々の信心深い事は誠に驚き入るのでありまして、内地ではとても見る事が出来ますまい。祖先に対する厚い尊敬心と、仏に対する深い信仰心には敬服する次第であります。慥か、お盆の頃の事でしたが、庭の前の道を、「此のお花は盆のお墓にあげようと思って此春から丹念に作って居りましたが……」など云ひ交しながら通って行く島人の声をきいて居まして、しんみりとさせられた事でした。
 
   鉦たたき
 
 私がこの島に来たのは未だ八月の半ば頃でありましたので、例の井師の句のなかにある「氷水でお別れ」をして京都を十時半の夜行でズーとやって来たのです。ですから非常に暑くて、浴衣一枚すらも身体につけて居られない位でした、島は到る処これ蝉声●(クチヘン+「彗」)々。しかし季節といふものは争はれないもので、それからだんだんと虫は啼き出す、月の色は冴えて来る、朝晩の風は白くなって来ると云ふわけで、庵も追々と、正に秋の南郷庵らしくなって参りましたのです。
 一体、庵のぐるりの庭で、草花とでも云へるものは、それは無暗と生えて居る実生の鶏頭、美しい葉鶏頭が二本、未だ咲きませぬが、之も十数株の菊、それと、白の一重の木槿が二本……裏と表とに一本宛あります、二本共高さ三四尺位で、各々十数個の花をつけて居ります、そして、朝風に開き、夕靄に蕾んで、長い間私をなぐさめてくれて居ります。まあこれ位なものでありませう。あとは全部雑草、殊に西側山よりの方は、名も知れぬ色々の草が一面に山へかけて生ひ繁って居ります。然し、よく注意して見ると、これ等雑草の中にもホチホチ小さな空色の花が無数に咲いて居ります、島の人は之を、かまぐさ、とか、とりぐさ、とか呼んで店ります。丁度小鳥の頭のやうな恰好をして居るからださうです、紺碧の空色の小さい花びらをたった二まい宛開いたまんま、数知れず、黙りこくって咲いて居ます。私だちも草花であります、よく見て下さい──と云った風に。
 かう云ふ有様ですから、追々と涼しくなって来るといっしよに、所謂、虫声●(しよく「口偏+即」)々。あたりがごく静かですから昼間でも啼いて居ます、雨のしとしと降る日でも啼いて居ります。ですから夜分になって一層あたりがしんかんとして来ると、それは賑かな事であります。私は朝早く起きることが好きでありました、五時には毎朝起きて居りますし、どうかすると、四時頃、まだ暗いうちから起き出して来て、例の一本の柱に上によりかゝって、朝がだんだんと明けて来るのを喜んで見て居るのであります。さう云った風ですから、夜寝るのは自然早いのです。暮れて来ると直ぐに蚊帳を吊って床の中には入ってしまひます、殆んど今迄ランプをつけた事が無い、これは一つは、私の大敵である蚊群を恐れる事にもよるのですけれども、まづ、暗くなれば、蚊帳のなかにはいって居るのが原則であります、そして布団の上で、ボンヤリして居たり、腹をへらしたりして居ります。ですから自然、夜は虫鳴く声のなかに浸り込んで聞くともなしに聞いて居るときが多いのであります。ヂツとして聞いて居ますと、それは色々様々な虫が鳴きます、遠くからも、近くからも、上からも、下からも、或は風の音の如く、又波の叫びの如く──。その中に一人で横になって居るのでありますから、まるで、野原の草のなかにでも寝てゐるやうな気持がするのであります、斯様にして一人安らかな眠のなかに、いつとは無しに落ち込んで行くのであります。其時なのです、フト鉦叩きがないてるのを聞き出したのは──。
 鉦叩きと云ふ虫の名は古くから知って居ますが、其姿は実の処私は未だ見た事がないのです、どの位の大きさで、どんな色合をして、どんな恰好をして居るのか、チツトも知りもしない癖で居て、其のなく声を知ってるだけで、心を牽かれるのであります。此の鉦叩きといふ虫のことについては、かって、小泉八雲氏が、なんかに書いて居られたやうに思ふのですが、只今、チツトも記憶して居りません。只、同氏が、大変この虫の啼く声を賞揚して居られたと云ふ事は決して間違ひありません。東京の郊外にも──渋谷辺にも──ちよい/\居るのですから、御承知の方も多いであらうと思はれますが、あの、カーン、カーン、カーンと云ふ啼き声が、何とも云ふに云はれない淋しい気持をひき起してくれるのです。それは他の虫等のやうに、其声には、色もなければ、艶もない、勿論、力も無いのです、それで居てこの虫がなきますと、他のたくさんの虫の声々と少しも混雑することなしに、只、カーン、カーン、カーン………如何にも淋しい、如何にも力の無い声で、それで居て、それを聞く人の胸には何ものか非常にこたへるあるものを持って居るのです。そのカーン、カーンと云ふ声は、大低十五六遍から、二十二三遍位くり返すやうです、中には、八十遍以上も啼いたのを数へた…寝ながら数へた事がありましたが、まあこんなのは例外です、そして此虫は、一ケ所に決してたくさんは居らぬやうであります、大低多いときで三疋か四疋位、時にはたった一疋でないて居る場合──多くの虫等の中に交って──を幾度も知って居るのであります。
 瞑目してヂツと聞いて居りますと、この、カーン、カーン、カーンと云ふ声は、どうしても此の地上のものとは思はれません。どう考へて見ても、この声は、地の底、四五尺の処から響いて来るやうにきこえます、そして、カーン、カーン、如何にも鉦を叩いて静かに読経でもしてゐるやうに思はれるのであります。これは決して虫では無い、虫の声では無い、……、坊主、しかし、ごく小さい豆人形のやうな小坊主が、まっ黒い衣をきて、たった一人、静かに、……地の底で鉦を叩いて居る、其の声なのだ、何の呪詛か、何の因果か、どうしても一生地の底から上には出る事が出来ないやうに運命づけられた小坊主が、たった一人、静かに、……鉦を叩いて居る、一年のうちで只此の秋の季節だけを、仏から許された法悦として、誰に聞かせるのでもなく、自分が聞いて居るわけでも無く、只、カーン、カーン、カーン、……死んで居るのか、生きて居るのか、それすらもよく解らない……只而し、秋の空のやうに青く澄み切った小さな眼を持って居る小坊主……私には、どう考へなほして見ても、かうとしか思はれないのであります。
 其の私の好きな、虫のなかで一番好きな鉦叩きが、この庵の、この雑草のなかに居たのであります。私は最初その声を聞きつけた時に、ハツと思ひました、あゝ、居てくれたか、居てくれたのか……それもこの頃では秋益々闌けて、朝晩の風は冷え性の私に寒いくらゐ、時折、夜中の枕に聞こえて来るその声も、これ恐らくは夢でありませう。
 
   
 
 土庄の町から一里ばかり西に離れた海辺に、千軒といふ村があります、島の人はこれを「センゲ」と呼んで居ります。この千軒と申す処が大変によい石が出る処ださうでして、誰もが最初に見せられた時に驚嘆の声を発するあの大阪城の石垣の、あの素破らしい大きな石、あれは皆この島から、千軒の海から運んで行ったものなのださうです。今でも絵はがきで見ますと、其の当時持って行かれないで、海岸に投げ出された儘で残って居るたくさんの大石が磊々として並んで居るのであります。石、殆んど石から出来上って居るこの島、大変素性のよい石に富んで居るこの島、……こんな事が私には妙に、たまらなく嬉しいのであります。現に、庵の北の空を塞いで立って居るかなり高い山の頂上には──それは、朝晩常に私の眼から離れた事のない──実になんとも言はれぬ姿のよい岩石が、たくさん重なり合って、天空に聳えて居るのが見られるのであります。亭々たる大樹が密生して居るがために黒いまでに茂って見える山の姿と、又自ら別様の心持が見られるのであります。否寧ろ私は其の赤裸々の、素ツ裸の開けツ拡げた山の岩石の姿を愛する者であります。恐らく御承知の事と思ひます、此島が、かの、耶馬渓よりも、と称せられて居る寒霞渓を、其の岩石を、懐深く大切に愛撫して居ることを──。
 私は先年、暫く朝鮮に住んで居たことがありますが、あすこの山はどれもこれも禿げて居る山が多いのでああります、而も岩山であります。之を殖林の上から、又治水の上から見ますのは自ら別問題でありますが、赤裸々の、一糸かくす処のない岩石の山は、見た眼に痛快なものであります。山高くして月小なり、猛虎一声山月高し、など申しますが、猛虎を放って咆吼せしむるには岩石突兀たる山に限るやうであります。
 話が又少々脱線しかけたやうでありますが、私は、必ずしも、その、石の径、石の奇、或は又、石の妙に対してのみ嬉しがるのではありません、否、それ処ではない、私は、平素、路上にころがって居る小さな、つまらない石ツころに向って、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。たまたま、足駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行ってしまったか、見えなくなってしまった石ツころ、又蹴りそこなって、ヒヨコンとそこらにころがって行って黙って居る石ツころ、なんて可愛い者ではありませんか。なんで、こんなつまらない石ツころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまって居る……其辺にありはしないでせうか、いや、石は、物が云へないから、黙って居るより外にしかたがないでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない、反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打って生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなって行くのであります。よく、草や木のだまって居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。何となれば、草や木は、物をしやべりますもの。風が吹いて来れば、雨が降って来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか。処が、石に至ってはどうでせう、雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。
 私は屡々、真面目な人々から、山の中に在る石が児を産む、小さい石ツころを産む話を聞きました。又、久しく見ないで居た石を偶然見付けると、キツト太って大きくなって居るといふ話を聞きました。之等の一見、つまらなく見える話を、鉱物学だとか、地文学だとか云ふ見地から、総て解決し、説明し得たりと思って居ると大変な間違ひであります。石工の人々にためしに聞いて御覽なさい。必ず異口同音に答へるでせう、石は生きて居ります……と。どんな石でも、木と同じやうに木目と云ったやうなものがあります、その道の方では、これをくろたまと云って居ります。ですから、木と同様、年々に太って大きくなって行くものと見えますな……とか、石も、山の中だとか、草ツ原で呑気に遊んで居るときはよいのですが、一度吾々の手にかゝって加工されると、それっ切りで死んでしまふのであります、例へば石塔でもです、一度字を彫り込んだ奴を、今一度他に流用して役に立てゝやらうと思って、三寸から四寸位も削りとって見るのですが、中はもうボロボロで、どうにも手がつけられません、つまり、死んでしまって居るのですな、決局、漬物の押し石位なものでせうよ、それにしても、少々軽くなって居るかも知れませんな…とか、かう云ったやうな話は、ザラに聞く事が出来るのであります。石よ、石よ、どんな小さな石ツころでも生きてピンピンして居る、その石に富んで居る此島は、私の感興を惹くに足るものでなくてはならない筈であります。
 庵は町の一番とっぱしの、一寸小高い処に立って居りまして、海からやって来る風にモロに吹きつけられた、只一本の大松のみをたよりにして居るのであります、庵の前の細い一本の道は、西南の方へ爪先き上りに登って行きまして、私を山に導きます、そして、そこにある寂然たる墓地に案内してくれるのであります。此辺はもう大分高みでありまして、そこには、島人の石塔が、白々と無数に林立してをります。そして、どれも、これも、皆勿体ない程立派な石塔であります、申す迄も無く、島から出る好い石が、皆これ等の石塔に作られるのです、そして、雨に、風に、月に、いつも黙々として立ち並んでをります、墓地は、秋の虫達にとっては此上もないよい遊び場所なのでありますが、已に肌寒い風の今日此頃となりましては、殆んど死に絶えたのか、美しい其声もきく事が出来ません、只々、いつ迄もしんかんとして居る墓原。これ等無数に立ち並んで居る石塔も、地の下に死んで居る人間と同じやうに、みんなが死んで立って居るのであります、地の底も死、地の上も死……。あゝ、私は早く庵にかへって、私のなつかしい石ツころを早く拾ひあげて見ることに致しませう、生きて居る石ツころを──。
 
   
 
 市中甚遠からねば、杖頭に銭をかけて物を買ふ足の労を要せず、而も、市中又甚近からねば、窓底に枕を支へて夢を求むる耳静なり、それ、巣居して風を知り、穴居して雨を知る……
 かう書き出しますると、まるで、鶉衣にある文句のやうで、すっかり浮世離れをして居る人間のやうに思はれるのですが、其の実はこれ、俗中の俗、窃に死ぬ迄の大俗を自分だけでは覚悟して居るのであります。が然し、庵の場所は全く申し分なしで、只今申上た通り、市中を去る事余り遠くもなく、さりとて又近過ぎもせず、勿論、巣居であり、穴居でありますが、俗物にとっては甚以て都合の宜しい位置に建って居るのであります。巣と申せば鳥に非ずとも必ず風を聯想しますし、穴と申せば虫に非ずとも必ず雨を思ひ起します、入庵以来日未だ浅い故に、島の人々との間の交渉が、自らすくなからざるを得ないから、自然、毎日朝から庵のなかにたった一人切りで座って居る日が多いのであります。独居、無言、門外不出……他との交渉が少いだけそれだけに、庵そのものと私との間には、日一日と親交の度を加へて参ります。一本の柱に打ち込んである釘、一介の畳の上に落ちて居る塵と雖、私の眼から逃れ去ることは出来ませんのです。
 今暫くしますれば、庵と私と云ふものとが、ピタリと一つになり切ってしまふ時が必ず参ることゝ信じて居ります。只今は正に晩秋の庵……誠によい時節であります、毎朝五時頃、まだウス暗いうちから一人で起き出して来て…庵にはたった一つ電燈がついて居まして、之が毎朝六時頃迄は灯って居ります……東側の小さい窓と、西側の障子五枚とをカラリとあけてしまって、仏間と、八畳と、台所とを掃き出します、そしてお光りをあげて西側の小さい例の庭の大松の下を掃くのです。この頃になると電気が消えてしまひまして、東の小窓を通して見える島の連山が、旭日の登る準備を始めて居ります、其の雲の色の美しさ、未だ町の方は実に静かなもので、何もかも寝込んで居るらしい、たゞ海岸の方で時折漁師の声がきこえてくる位なもの──。これが私のお天気の日に於ける毎日のきまった仕事であります、全く此頃お天気の日の庵の朝、晩秋の夜明の気持は何とも譬へやうがありません。若しそれ、これが風の吹く日であり、雨の降る日でありますと、又一種別様な面白味があるのであります。島は一体風の大変よく吹く処で、殊に庵は海に近く少し小高い処に立って居るものですから、其の風のアテ方は中々ひどいのです。此辺は余り西風は吹きませんので、大抵は海から吹きつける東南の風が多いのであります。今日は風だな、と思はれる日は大凡わかります、それは夜明けの空の雲の色が平生と異ふのであります、一寸見ると晴れさうで居て、其の雲の赤い色が只の真ツ赤な色ではないのです、之は海岸のお方は誰でも御承知の事と思ひます、実になんとも形容出来ない程美しいことは美くしいのだけれども、その真ツ赤の色の中に、破壊とか、危惧とか云った心持の光りをタツプリと含んで、如何にも静かに、又如何にも奇麗に、黎明の空を染めて居るのであります。こんな雲が朝流れて居る時は必ず風、…間も無くそろそろ吹き始めて来ます、庵の屋根の上には例の大松がかぶさって居るのですから、之がまっ先きに風と共鳴を始めるのです、悲鳴するが如く痛罵するが如く、又怒号するが如く、其の騒ぎは並大抵の音ぢやありません。庵の東側には、例の小さな窓一つ開いて居る切りなのですから、だんだん風がひどくなって来ると、その小さい窓の障子と雨戸とを閉め切ってしまひます、それでおしまひ。外に閉める処が無いのです。ですから、部屋のなかはウス暗くなって、只西側の明りをたよりに座って居るより外致し方がありません。こんな日にはお遍路さんも中々参りません、墓へ行く道を通る人も勿論ありません。風はえらいもので、どこからどう探して吹き込んで来るものか、天井から、壁のすき間から、ヒユーヒユーと吹き込んで参ります。庵は余り新しくない建て物でありますから、ギシギシ、ミシミシ、どこかしこが鳴り出します、大松独り威勢よく風と戦って居ります。夜分なんか寝て居りますと、すき間から吹き込んだ風が天井にぶっかって其の儘押し上げるものと見えまして、寝て居る身体が寝床ごといっしよにスーと上に浮きあがづて行くやうな気持がする事は度々のことであります、風の威力は実にえらいものであります。私の学生時代の友人にK……今は東京で弁護士をやって居ります……と云ふ男がありましたが、此の男、生れつき風を怖がること夥しい、本郷のある下宿屋に二人で居ました時なんかでも、夜中に少々風が吹き出して来て、ミシ/\そこらで音がし始めると、とても一人でじっとして自分の部屋に居る事が出来ないのです。それで必ず煙草をもって私の部屋にやって来るのです、そして、くだらぬ話をしたり、お茶を呑んだり煙草を吸ったりしてゴマ化して置くのですね。私も最初のうちは気が付きませんでしたが、とう/\終ひに露見したと云ふわけです、あんなに風の音を怖がる男は、メツタに私は知りません、それは見て居ると滑稽な程なのです。処が、此の男に兜を脱がなければならないことが、こんどは私に始ったのです。それは……誠に之も馬鹿げたお話なのですけれ共……私は由来、高い処にあがるのが怖いのです、それも、山とか岳とかに登るのではないので、例へば、断崖絶壁の上に立つとか、素敵に高いビルデングの頂上の欄干もなにもないその一角に立って垂直に下を見おろすとか、さう云ふ場合には私はとても堪へられぬのです、そんな処に長く立って居ようものなら、身体全体が真ツ逆様に下に吸ひ込まれさうな気持になるのです、イヤ、事実私は吸ひ込まれて落ちるに違ひありません、と申すのは、さう云ふ高い処から吸ひ込まれて落込む夢を度々見るのですから。処が此Kです、あの少しの風音すらも怖がるKが、右申上げたやうな場合は平気の平左衛門なのです、例へば浅草の十二階……只今はありませんが……なんかに二人であがる時、いつでも此の意気地無し奴がと云ふやうな顔付をして私を苦しめるのです。丁度、蛇を怖がる人と、毛虫を怖がる人とが全然別の人であるやうなものなんでせう。浅草といへば、明治三十年頃ですが、向島で、ある興業師が、小さい風船にお客を乗せて、それを下からスル/\とあげて、高い空からあたりを見物させる事をやったことがあります。処がどうです、此のKなる者は、その最初の搭乗者で、そして大に痛快がって居るといふ有様なのです……いや、例により、とんだ脱線であります。扨、風の庵の次は雨の庵となるわけですが、全体、此島は雨の少い土地らしいのです、ですから時々雨になると大変にシンミリした気持になって、座って居ることが出来ます。しかし、庵の雨は大抵の場合に於て風を伴ひますので、雨を味ふ日などは、ごくごく今迄は珍らしいのでした。そんな日はお客さんも無し、お遍路さんも来ず、一日中昼間は手紙を書くとか、写経をするとか、読経をするとかして暮します、雨が夜に入りますと、益々しっとりした気分になって参ります。
 
   
 
 庵のなかにともって居る夜の明りと申せば、仏さまのお光りと電燈一つだけであります……之もつい先日迄はランプであったのですが、お地蔵さまの日から電燈をつけていたゞくことになりました。一に西光寺さんの御親切の賜であります、入庵以来幾月もたゝないのですが、どの位西光寺さんの御親切、母の如き御慈悲に浴しました事か解りません、具体的には少々楽屋落ちになりますから、これは避けさせていたゞきます……それだけの明りがある丈であります、扨、庵の外の灯ですが、之が又数へる程しか見えないのであります。北の方五六町距った処の小さい丘の上にカナ仏さまがあります……矢張りお大師さまで……其上に一っの小さい電燈がともって居ります。それから西の方は遥か十町ばかり離れて町家の灯が低く一つ見えます、東側には海を越えた島の山の中腹に、ポツチリ一つ見えます、多分お寺かお堂らしいですが、以上申上た三つの灯を、而もどれも遥かの先に見得る丈であります、しぜん、庵のぐるりはいつも真ツ暗と申してさし支へありますまい。イヤ、お墓を残して居りました。庵の上の山に在る墓地に、ともすると時々ボンヤリと一つ二つ灯が見えることがあります。之は、新仏のお墓とか、又は年回などの時に折々灯される灯火なのです。「明滅たり」とは、正にこの墓地の晩に時々見られる灯火のことだらうと思はれる程ボンヤリとして山の上に灯って居ります。私は、こんな淋しい処に一人で住んで居りながら、之で大の淋しがりやなんです、それで夜淋しくなって来ると、雨が降って居なければ、障子をあけて外に出て、このたった三つしかない灯を、遥の遠方に、而も離れ離れに眺めて一人で嬉しがって居るのであります。墓地に灯が見える時は猶一層にぎやかなのですけれ共さうさうは贅沢も云へない事です。庵の後架は東側の庭にありますので、用を足すときは必ず庵の外に出なければなりません。例の、昼間海を眺めるにしましても、夜お月さまを見るにも、そしてこの灯火を見るにも、私が度々庵の外に出ますのですから、大変便利であります。何が幸になるものか解りませんね、後架が外にあることがこれ等の結果を産み出すとは。
 灯と申せば、私が京都の一燈園に居りました時分、灯火に対して抱いた深酷な感じを忘れる事が出来ません、此の機会に於て少し又脱線さしていたゞきませう。一寸その前に一燈園なるものゝ様子を申上げませう。園は、京都の洛東鹿ケ谷にあります、紅葉の名所で有名な永観堂から七八丁も離れて居りませうか、山の中腹にポツンと一軒立って居ります、それは実に見すぼらしい家で、井師は已に御承知であります、いつぞや北朗さんとお二人で (一文字抜け)にお尋ねにあづかった事がありますから……それでも園のなかには入りますと、道場もあれば、二階の座敷もある、と云ったやうなわけ。庭に一本の大きな柿の木があります、用水は山水、之が竹の樋を伝って来るのですから、よく毀れては閉口したものでした。在園者はいつでも平均男女合して三十人から四十人は居りませうか、勿論その内容は、毎日、去る者あり、来るものありといふのでした、在園者は実によく変ります。私は一昨年の秋、而もこの十一月の二十三日新嘗祭の日を卜して園にとび込みました。私は満洲に居りました時、二回も左側湿性肋膜炎をやりました、何しろ零度以下四十度なんと云ふ事もあるのですから、私のやうな寒がりにはたまりません、其時治療してもらった満鉄病院々長A氏から……猶これ以上無理をして仕事をすると…と大に驚かされたのが此生活には入ります最近動機の有力なる一つとなって居るのであります。満洲からの帰途、長崎に立ち寄りました、あそこは随分大きなお寺がたくさん有る処でありまして、耶教撲滅の意味で威嚇的に大きくたてられたお寺ばかりです、何しろ長崎の町は周囲の山の上からお寺で取りかこまれて居ると見ても決して差支へありません.そこで色々と探して見ましたが、扨、是非入れて下さいと申す恰好なお寺と云ふものがありませんでした、そこで機縁が一燈園と出来上ったと云ふわけであります。長崎から全く無一文、裸一貫となって園にとび込みました時の勇気と云ふものは、それは今思ひ出して見ても素破らしいものでありました。何しろ、此の病躯をこれからさきウンと労働でたゝいて見よう、それでくたばる位なら早くくたばってしまへ、せめて幾分でも懴悔の生活をなし、少しの社会奉仕の仕事でも出来て死なれたならば有り難い事だと思はなければならぬ、と云ふ決心でとび込んだのですから素破らしいわけです。殊に京都の酷寒の時期をわざ/\選んで入園しましたのも、全く如上の意味から出て居ることでした。
 京都の冬は中々底冷えがします。中々東京のカラツ風のやうなものぢやありません、そして鹿ケ谷と京都の町中とは、いつでも、その温度が五度位違ふのですからひどかったです。一体、園には、春から夏にかけては入園者が大変多いのですが、秋からかけて酷寒となるとウンと減ってしまひます、いろんなことが有るものですよ。扨、それから大に働きましたよ、何しろ死ねば死ねの決心ですから、怖い事はなんにもありません、園は樹下石上と心得よと云ふのがモツトーでありますから、園では朝から一飯もたべません、朝五時に起きて掃除がすむと、道場で約一時間ほどの読経をやります、禅が根底になって居るやうでして、重に禅宗のお経をみんなで読みます。但、由来何宗と云ふことは無いので、園の者はお光り、お光り、お光りを見る、と申して居る位ですから、耶教でもなんでもかまひませぬ、以前、耶教徒の在園者が多かったときは、讃美歌なり、御祈りなり、朝晩、みんなでやったものださうです、それも、オルガンを入れてブーカ/゛\やり、一方では又、仏党の人々が木魚をポク/\叩いて読経したのだと申しますから、随分、変珍奇であったであらうと思はれます。現在では皆読経に一致して居ります、読経がすむと六時から六時半になります、それから皆てく/\各自その日の托鉢先き(働き先き)に出かけて行くのです。園から電車の乗り場まで約半里はあります、そこからまづ京都の町らしくなるのですが、園の者は二里でも三里でも大抵の処は皆歩いて行く事になって居ります──と申すのは無一文なんですから。先方に参りまして、まづ朝飯をいたゞく、それから一日仕事をして、夕飯をいたゞいて帰園します。帰園してから又一時間程読経、それから寝ることになります。何しろこ一日中くたびれ果てゝ居ることゝて読経がすむと、手紙書く用事もなにもあったもんぢやない、煎餅のやうな布団にくるまって其儘寝てしまふのです。園にはどんな寒中でも火鉢一つあった事なし、夜寝るのにも只障子をしめるだけで雨戸は無いのですから、それはスツパリしたものです。
 扨、私が灯火に対して忘れる事の出来ない思ひ出と申しますのは、この、朝早くまだ暗いうちから起き出して来て、遥か山の下の方に、まだ寝込んで居る京都の町々の灯、昨夜の奮闘に疲れ果てゝ今暫くしたら一度に消えてしまはうと用意して居る、数千万の白たゝけた京都の町々の灯を眺めて立って居る時と、夜分まっ暗に暮れてしまってから、其日の仕事にへト/\に疲労し切った足を引きづって、ポツリ/\暗の中の山路を園に戻って来る時、処々に見える小さい民家の淋しさうな灯火の外に、自分の背後に、遥か下の方に、ダイヤかプラチナの如く輝いて居る歓楽の都……京都の町々のイルミネーシヨンを始め、其他数万の灯火の生き/\した、誇りがましい輝かさを眺めて立って居た時の事なのです。此時の私の心持なのであります。此時の私の感じは、淋しいでもなし、悲しいでもなし、愉快でもなし、嬉しいでもなし、泣きたいでもなし、笑ひたいでもなし、なんと形容したら十分に其の感じが云ひ現はされるのであらうか、只今でも解りかねる次第であります。只、ボーツとして居るのですな。無心状態とでも申しませうか、喜怒哀楽を超越した感じ、さう云った風なものでありました。而もそれが、いつ迄たっても少しも忘れられませんのです、灯火の魅力とでも申しませうか、灯火に引き付けられて居る状態ですな。灯火といふものは色々な点から吾人の胸底をシヨツクするものであると云ふ事をつく/゛\感じた次第であります。此時の感じをうまく表現して見たいと思ったのですが、これ以上到底なんとも申し上げやうの無いのが遺憾至極であります。この位で御察し下さいませ。
 次に、この毎日の仕事……園では托鉢と申して居ります……之が実に雑多のものでありまして、一寸私が今思ひ出して見た丈けでも、曰く、お留守番、衛生掃除、ホテル、夜番、菓子屋、ウドン屋、米屋、病人の看護、お寺、ビラ撒き、ボール箱屋、食堂、大学の先生、未亡人、簡易食堂、百姓、宿屋、軍港、小作争議、病院の研究材料(之はモルモットの代りになるのです)等々、何しろ商売往来に名前の出てないものが沢山あるのですから数へ切れません、これ等一つ一つの托鉢先の感想を書いても面白い材料はいくらでもありませう。さて、私がこれ等の托鉢を毎日/\やって居ります間に、大に私のためになることを一つ覚えたのであります。それはかう云ふ事です、百万長者の家庭には入って見ても、カラ/\の貧乏人の家庭には入って行って見ましても、何かしら、其家のなかに、なんか頭をなやます問題が生じて居る、早い話が、お金に不自由が無い家とすれば、病人が有るとか、相続人が無いとか、かう云った風なことなのです、ですから万事思ふまゝになって、不満足な点は少しも無いと云ふやうな家庭は、どこを探して見ても、それこそ少しも無いと云ふ事でありました。仏力は広大であります、到る処に公平なる判断を下して居られるのであります。それと今一つ私の感じたことは、筋肉の力の不足と云ふことです。これは私が在園中の正直な体験なのですが、幸か不幸か、死ぬなら死んでしまへとほうり出した肉体は、其後今日迄別段異状無くやって来たのでしたが、只、人間も四十歳位になりますと、いくら気の方は慥であっても、筋肉・体力の方が承知を致しません、無理は出来ない、力は無くなって居る、園の托鉢はなんと申しましても力を要する仕事が一番多いのでありますから、最初のうちは、ナニ若い者に負けるものかと云ふ元気でやって居ったものゝ、到底長続きがしないのです。ですから、一燈園には入るお方は、まづ、二十歳から三十二三歳迄位の青年がよろしいやうです、又実際に於て四十なんて云ふ人は園にはそんなに居りはしません、居っても続きません。私は入園した当時に、如何にも若い、中には十七八歳位な人の居るのに驚いたのです、こんな若い年をして、何処に人生に対し、又は宗教に対して疑念なんかを抱くことが出来るであらう?…而しまあ、以前申した年頃の人々には、よい修業場と思はれます、年輩者には駄目です。天香さんと云ふ人は慥にえらい人に違ひない、あの園が、二十年の歴史を持って居ると云ふ点だけ考へて見ても解る事です、そして、智能の尤すぐれた人であります。茲に一つの挿話を書いて置きませう、或日、天香さんと話して居たとき、なんの話からでしたか、アンタは俳句を作られるさうですな、と云ふ事なので、えゝさうです。どうです。一日に百句位作れますか? さすがの天香さんも、俳句については矢張り門外の人であったのであります、園で俳句をやって居る人々もあるやうでしたが、大抵、ホトトギス派のやうに見受けました。
 いや、非常な大脱線で、且、大分ゴタ/\して来ましたから、此の入庵雑記もひとまづ此辺で打ち切らしていたゞかうと思ひます。筆を擱くにあたりまして、今更ながら井師の大慈悲心に想到して何とも申すべき言葉が御座いません、次に西光寺住職、杉本師に対しまして、之又御礼の言葉も無い次第であります。杉本師は、同人としては玄々子と称して居られますが、師は前一寸申上げた通り、相対座して御話して居ると、全く春風に頬を撫でられて居るやうな心持になるのであります、此の偉大な人格の所有主たる杉本師の庇護の下に、南郷庵に居らせていたゞいて居ると申しますことは、私としまして全く感謝せざるを得ない事であります。同人、井上一二氏に対する御礼の言葉は余りに親しき友人の間として、此際、遠慮して置きます。扨、改めてお三方に深い感謝の意を表しまして、此稿を終らせていたゞきます。南無阿弥陀仏。
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「放哉」南郷庵友の会
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