放哉の事 荻原井泉水追悼文
放哉が死んだ──四月七日の夜八時頃──此の突然の訃報に私は驚いた。彼のノドが腫れて食事が通らないという事を知ったのは、三月の十日頃だった。旅人からの消息で、喉頭結核の疑もあるといふ事と、果して、さうとしたらば回春の見込はあるまいといふ事だった 然し、旅人とて自分で診察したのではなし、ただ放哉からの書簡で知るのみだから(放哉は薬をもらふ都合から旅人にだけは病気の容態をくはしく知らしてゐたのである)断定的に云へる事でなし、さうでなくてくれゝば好いと念じながら、然し、事実さうとしたらば人事の尽し得られるだけにしてやりたいと北朗とも相談し、島の中では医薬の点も遺憾の事が少くあるまいから、京都に呼んで治療をすゝめる事、(之は放哉自身が断って来た)後援会の有志にも限りがある事だから、他に方策を講ずる事なども打合せつゝあったのだった。其中、放哉自身から、又ノドが通るやうになった、奇蹟々々などゝいふて来るので、少しく安心してゐた所だったのである。
彼が死んだといふ電報を手にしたのは八日の午前二時だった。私は仕事の手放しえられぬ時だったが、そんな事を云ふてゐる場合ではないので、すぐ出立する用意をした。北朗も一緒に行くといひ出した。立つ前に一二から放哉の病状に就て委しい手紙が来てゐた。島の医者の診断に寄ると、彼は以前から結核に冒されてゐたのだが、其はさして進んではゐなかった。風邪をひいて、非常にセキをした為めに、喉頭に患部をうつして喉頭結核になった。それから最近には腸も犯された、それが致命的になったらしいといふのである。あの首筋の短い、頭のハゲた、糖尿体質らしい放哉が結核で倒れようとは意外だった。去年の秋、北朗が彼を訪ふた時も、彼はセキ通しにセイてゐたし、ひどく痩せてゐたといふ話だったが、私達は、それは単なる風邪と営(ママ)養不良の為めだらう位に考へてゐた。彼のセキは余程、彼を苦しめたらしい、彼は死ぬのはかまはぬが、セキの苦しみだけは免れたいと云ふので、旅人は何か注射の薬を送ってやり、彼は自分で其を試みてゐたが、其だけでは救ひえなかった程、彼の病根は深くくひ込んでゐたのであった。
然し、死といふ事に対しては、彼は平気であった。彼は死に面しての恐怖や不安を感じてゐなかった。彼には一人の係累もなく、又、我を執すべき仕事もなく、真に無一物の境涯にある放哉であって、天空のやうにカラリとした気持にすわってゐたからである。小豆島に渡ってからの彼は、物質といふべきものゝ何一つも持たなかった。着る物などは私達から送った。食べる物は一二から送って貰ふやうに私は頼んだ。住すべき庵は玄々子の恵む所である。彼の日常に入用な雑品は後援会から送ったのもあるし、同人諸君のうちから個人的にずいぶん送られてゐたらしい。彼は、自分の欲しい物があると、遠慮なく夫々に所望をする、而して恵まれてゐた自分を自分で喜んでゐたのである。島の庵居生活は、不自由いへば実に不自由であったらうが、彼はそこに悠々自適して、入庵以来、我が死所を得たりといふ気持でゐたらしい事は、彼の文章にも書簡にも見える。彼は、物質的には実に貧しく、淋しく死んだやうだが、精神的にはすっかり満足しきってゐた事が、彼を悼む心の中にも、せめてもの慰めと思ふ所である。
私と北朗とが小豆島に着いたのは九日の朝だった。一二、玄々子とも相談をした上、南郷庵の後丘に埋葬することゝした。急を聞いて駈つけたといふ放哉の妹サンも見えてをり、葬式にかゝる時、彼の国から姉サンと、従弟といふ人も見えた。かうした肉親のある事をも、彼は死ぬまで自身で口外しなかったのだが、葬式に際して困るとも思ったので、私が他から聞き出して知らしたのであった。彼は、親戚といふものに或る反感をもってゐるらしく見えるまでに、最後まで「絶対に一人」を通しきったのである。
放哉の事を思ふと、まことに夢の如くでもあり、又、ふしぎな因縁があるやうにも思はれる。彼と私と知り合ったのは一高に居た頃である、其事を彼は「入庵雑記」の初めに書いてゐたが、一高俳句会の席上で顔を合はすといふだけで、格別ふかい交際をした訳ではなかった。当時、夏目漱石の「我輩は猫である」が評判になってゐたが、一高の校友会雑誌に「我輩はランタンである」といふ文章を書いたものがある、ランタンとは消燈後寄宿舎の廊下に吊してある油燈で、其油燈自身の見る所として、消灯後の寄宿舎の百鬼夜行する様を描いたのである。それは実に明暢自由なる達文であって、誰が書いたのだと喧しかったが、其の筆者は彼、放哉だったのである。大学時代には彼はさして勉強もせず、又、俳句もさして熱心でなかったらしい。鎌倉の円覚寺へ行って参禅をしたのは其頃だったらう。卒業後、赤門出の法学士として東洋生命保険会社に入り、累進して契約課長の椅子を占めてゐた。俳句も気が向けば作るといふ風で、決して上手ではなかった。渋谷に家があった頃、同人達が時々遊びに行っても、句の話などよりも、まあ一杯飲めといふ風で、彼はいつも長火鉢の前にトグロを巻いて、杯を手から離した事はなかったといふ。彼の妻君が非常なハデ好きで、家では朝から風呂を立て、女中が二人もゐたといふ話である。
彼が朝鮮火災保険会社の支配人となって彼地にわたり、突然、やめるやうになったまでの事情を私は好くしらない。彼はたゞ自分の「馬鹿正直」の為めだといってゐる。兎も角、彼は非常な決心をしたので、一燈園に飛込んで来た時は──彼は其妻君さへも、どこかへ振り捨てゝ来て、全く無一物の放哉だったのである。彼が、俳句に復活し、又、彼の俳句が光って来たのは、それからの事である。
私と彼との密接なる交渉も其から始まる。十三年の春私が京都に来て、久しぶりで彼に逢ったのは、知恩院内の常照院であった。其寺へ、彼は一燈園から托鉢に来たのが縁故となって、常住の寺男に住み込んでゐた。私が尋ねて行った時、彼は一燈園(の)制服のやうな紺の筒紬を着て、漬物桶を洗ってゐたが、前から和尚に其日は暇を貰ふ事を話してあったらしく、手拭で身体をはたいて、其手拭を又腰にさして、私と一緒に連立った。何しろ久濶を叙する意味で、其夕、四条大橋の袂の或家で一緒に飯をたベた。彼は一燈園に入て以来、禁酒をしてゐたのださうだが、今夜は特別だからと云って、禁を破って大に飲んだ事だった。其翌日、私から再び常照院を訪れると、和尚の話に「尾崎サンはもう出て貰ふ事にしました」との事、聞けば前夜、院に戻ってからもメートルをあげすぎて、すっかり和尚の感情を害してしまったらしいのである。彼の流転生活はそれからはじまる。彼は常照院を追はれて、須磨寺に行き、須磨寺を出されて(之は酒の上ではなく寺内の葛藤のまきぞへを食ふたといふ訳)、小浜の常高寺に赴き、小浜では和尚の借金の弁疏係をしてゐたがお寺其物が経済的に破綻したので、彼も居たゝまれずに京都に戻って来た。私の京都の寓居に暫くゴロ/\してゐたのは其頃である。彼はやはり寺の下男がいゝ、とて、三哲の龍岸寺といふ寺へ行ったが、そこの和尚とは性格的に全く合はないので、又飛出して来た。さうした流転生活の初まりは、四条で酒を飲んだ事(私が、まあ今夜はよからうと飲ましたといっていゝかもしれない)に因を発するとすると、私も大に責任を感じなければならぬ訳である。
放哉は、今は台湾にゐる友人をたよって、流転しようかと云ってゐたが、其は寒がりやの彼が、台湾は暖いから佳いといふ考もあったのである。然し、「まあ、台湾落までせずとも好からう、内地だとて四国辺はかなり暖かからうから……」と私が考へたのが小豆島で、そこには遍路のまゐる沢山の寺や庵があるので、その堂守として住込むべき所がありさうに思ったからである。果して、西光寺の南郷庵がたま/\明いたとて遂にそこが彼の最後までの巣になったのだったが、小豆島の冬は想像と違って寒く、殊に今年は何十年ぶりといふ珍らしい強風の日が続いたさうで、其風で彼はノドをいため、其が彼の死をはやめたものとすると、こゝでも、小豆島行をすゝめた私は、何といっていゝか解らぬ、ふしぎな因縁の悲しさを感ぜざるを得ないのであるが、島へ行ってからの彼自身は、すっかり落付いて、「若し再び此島を追はるゝならば、むしろ海に投じて死する考……」などゝいふて来てゐたのである。
その「再び島を追はれる……」懸念といふのは、又しても酒の事なのである。京都を立って行く時一晩、私の所で大に飲んだ上に今後の禁酒を誓はして、彼が餞別に句を書いてくれといふまゝ、彼の扇に「翌からは禁酒の酒がこぼれる」と私は書いて、「翌からは/\」といふて飲むのぢやないぞ、といふて笑ったが、果して其の通り、酒はやめられず、而して飲めば、例の全放哉を発揮して眼中に人間がなくなるから、しぜん、あたりが困るのである。その迷惑を私は一二からも聞いて、島にゐる気ならば神妙にしてくれねば困る、さもなくば台湾へ行くか、と少し強い調子で云ふてやった返事が、上の「むしろ海に投じて死する考……」といふ言葉だった。けれども、斯うも短い命と知ったならば、飲みたい酒を浴びる程飲ましてやりたかった、としみ/゛\くやまれもするのである。
彼の俳句がいよ/\燦然たる光を発したのは、小豆島に渡ってから以後であった。彼は、そこで「俳句三昧」に入ってゐたといっても好い。彼ほど真剣に句作したものはなく、彼ほど其生命を俳句にやきつけたものはない。彼が此地上に於ける紀念として此「放哉句集、大空」の一巻を私が作った事は、彼に対する最後の悲しい友情である。
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