会報18号 
放哉さんも歩いた 「迷路のまち」

『放哉』南郷庵友の会 会長 岡田好平
放哉さんが大正十四年八月から大正十五年四月までの約八力月間を過ごした「南郷庵」(現小豆島屋崎放哉記念館)から、細い路地を通りぬけて小豆島八十八か所霊場第五十八番札所「西光寺」に出る道の周辺一帯。
この個性的な町並みは、海賊から島民の生活を守り、また海風から建物や生活を守るために、意図的に造られたと言われています。
土庄町の中心部に位置するこの複雑な路地が「迷路」のようである事から、いつの頃からか「迷絡のまち」と呼ぱれるようになりました。


(編者注; 「迷路のまち」とはどの様にイメージすればいいのであろうか。その一助になる文書があります。10年近く前に当地を訪れた放哉ファンが西光寺から路地をたより尾崎放哉記念館までの僅かの距離で散々行き迷う様子が書かれた郵便局まで六百二十四歩というものです。これもお読み頂きたい。)
迷路のまちの公式HPです。お尋ね下さい。

さて、この迷路のように入りくんだ路地に古い民家や商店が立ち並ぶ土庄町本町地区では、この町並みを「迷路のまち」としてPRし、観光振興を図りたい。と町議会観光再生特別委員会が2005年に提案、その後町商工会と町や商工会員らでつくる「迷路のまち再聞発実行委員会」が実施主体となり、県と町の補助を受けて具体化した事業プランに添って平成十九年五月、地区内の13店舖に「迷路のまち」と書いたのれんと、放哉さんが作った自由律俳句が書かれた行灯が取り付けられました。

放哉俳句の行灯
のれん
迷路のまち看板
西光寺門前

また西光寺の門前には、表に「迷路のまち」、裏面に放哉さんの略歴を記した看板と、さらに土渕海挟の向い、町役場近くにアーチ型看板を設置したほかその横に迷路エリアの地図が入った案内板も作られました。
この行灯とのれんの設置は、今後も賛同者を増やしていくようですが、放哉さんを尋ねてこられた方は、まず平成6年4月にオープンした「小豆島尾崎放哉記念館」に寄られ、高台にある放哉さんのお墓にお参りした後、友の会が設置した標識を逆にたどり、この路地を通って西光寺の大銀杏の下に建てられた放哉・山頭火の句碑を見た後、のれんと行灯をたどりながらお店に掲げた放哉句を鑑賞し、世界一狭い海峡にかかる永代橋を渡り、平成十七年八月にオープンした「尾崎放哉資料館」で最後の仕上げをしていただきたいと思います。
なお資料館の隣にある「町立中央図書館」には、放哉さんに関する資料が沢山あり、ゆっくりと研究されるのも、放哉さんにふれあえる有意義な機会ではないかと思います。
お帰りの節は土庄港緑地公園にある放哉さんの上陸地の句碑も是非ご覧いただければ幸です。
以下店舗名と、店主が選んだ放哉句を掲載いたします。





  海風に筒抜けられて居るいつも一人
                                   靴のかまだ2号店
  詳細ページ
「小さい庵でよい…海が見えるともっとよい…」師の井泉水に依頼した条件にピッタリの南郷庵であったが、地位も名誉もふるさとも、妻をも捨てた放哉は、それが自分の意志であっても、その孤独はおおうべくもなく、海風に筒扱けられているのは放哉の心であり、その淋しさが”いつも一人”の中にこめられている。
(句は層雲大14年11月号「足のうら」より)

  都のはやりうたうたって島のあめ売り
                       
やなぎ屋食料品店小売部  詳細ページ
東京・大阪での優雅な生活、満洲でのはなやかな生活と、今のシンプルライフな生活を比較して、来るところまで来てしまって今更何も望めないが、聞こえてくる都会のはやり唄はなつかしく、そのメロディに一抹の悲哀を感じている心象がよく出ている。
(句は層雲大正15年1月号「島の明けくれ」より)


   春の山のうしろから烟が出だした
                                木村米穀店   詳細ページ
放哉は大正十五年四月七日、南郷庵の二畳の間で亡くなった。その時頭は入口の方に向いていた。烟は当時あった火葬場の烟である。風の向きによってその烟や句いが放哉の枕元までくる。だから”うしろからの烟”は、放哉の頭のうしろからであり、一筋の白い烟は、やがて自分を焼く烟と考えたかも知れないし、あるいは”生きたい”という生へのあこがれの烟であったのかも知れない。
(句は層雲大正15年6月号「最後の手記」より)


   山の和尚の酒の友とし丸い月ある
                                  エスポアおおもり  詳細ページ 
「酒はほどほどがよろしく…」西光寺住職杉本玄々子の言葉である。放哉は在庵中しばしば酒で失敗、それを物心両面にわたって支えてくれたのは玄々子である。飲んではいけない酒を大らかに付合いしてくれる事に、放哉は人間の暖かさを感じた。山は土山の事であろう。
(句は層雲大正14年11月号「足のうら」より)


    あらしがすっかり青空にしてしまった
                                 元屋商店     詳細ページ
大正十四年十一月十六日付玄々子あての手紙に「風が中々キツク吹きます…」とあり、”ヒドイ風だドコ迄も青空”という句を送っている。これはこの句を推敲したものだろう。庵のスキ問から入り込む風の音が庵をゆらし、それをあらしと表現した。風が雲を散らし青空になった事で、放哉の心もすっかり晴れた。
(句は層婁大正b‐l月号「島の明けくれ」より)


   山は海のタ陽をうけてかくすところ無し
                                   池本芳栄堂    詳細ページ
「障子あけて置く海も暮れ切る」初秋の海はおだやか、大自然の中さんさんと降りそそぐ海の夕陽も、やがては落ちる。人間とて例外ではない。
一見明るい句であるがその裏に放哉の運命を暗示しているように見える。朝日でなく、夕陽としたところに放哉の心境がよく出ている。
(句は層雲大正14年11月号「島の祭」より)



   朝がきれいで鈴を振るお遍路さん
                                   笠井電気店    詳細ページ
晩秋の澄みきった朝、リンリンと鈴を振る音も澄んでお遍路さんが近づいてくる。あれは南郷庵に来るのだろうか、「お蝋一丁ー家内安全ー」と練習してみる。早く春が来て大勢来ないか、放哉の体は今朝は咳も正まり気分も良い。
(句は層雲大正15年2月号「野菜根抄」より)


    入れものが無い両手で受ける
                                 岡田長栄堂本店
   詳細ページ
何を貰ったのか、諸説さまざまで「かやくご飯のお握り」「豆腐半丁」「豆」「果物」などとも言われているが、放哉が貰ったのは「物」そのものではなく、持ってきてくれた人の“心”であり、それを感謝して受ける気持である。
(句は層雲大正15年2月号「野菜板抄」より)


    島の小娘にお給仕されてゐる
                                    ひよこ食堂    詳細ページ
大正十四年八月十三日の午後、放哉は風呂敷包み一つ、浴衣一枚、扇子一本を持って井上}二宅を訪れた。その時応待したのは一二の弟四朗の嫁朝栄さんであった。風呂に入りビールを所望する。その時の給社が朝栄さんで、当時十九才。一二宅に行儀見習に来ていた。
(句は層雲大正14年10月号より)


    竹藪にタ陽吹きつけて居る
                                   四橋荒物店    詳細ページ
放哉にしては珍しい単々と詠んだ写生句である。竹薮にやがて落ちていく夕陽のはかなさに、これからの自分の生き方に思いをいたし、ふと、ふるさと鳥取の風景を思い浮かべているのかも知れない。記念館に短冊有。
(句は層雲大正15年1月号「島の明けくれ」より)
加藤肥後守陣屋跡(四橋荒物店正面)
四橋荒物店より望む西光寺山門


    窓あけた笑ひ顔だ
                                   米専ばんすけ   詳細ページ
「海が少し見える小さい窓一、つ持つ」
南郷庵の八畳間にある小さい窓、その窓を開けて世話してくれているおシゲさんの笑顔が見えた。しがし放哉が見たその笑い顔はおシゲさんではなく、窓の下に生えている雑草であったのではないだろうか。春を待つ心境がよく出ている句である。
(句は層雲大正15年4月号「佛とわたくし」より)


    木槿一日うなづいて居て暮れた
                                  CRAFTあいびい  詳細ページ
木僅の花は芙蓉に似た花で、朝開いて夕方落ちる。南郷庵の庭にあった大きな花は、秋風に上下にゆれている。それをうなづいていると見た放哉は、自分の置かれている境遇と生活に同化し、あきらめに似た心境であったのだろう。
(句は層雲大正14年12月号「島の祭」より)


    久し振りの雨の雨だれの音
                        土庄醤油
放哉が南郷庵で作った雨の句は七句。久し振りに降った雨と雨だれの音に自然の営みを感じ、何か心安らぐ思いがして雨をしのげる庵の生活に感謝している。「この雨だれの音のよろしさ。身を捨てた人に対して初めて味い得る自然の妙音」とは、師の井泉水の言葉である。
(句は層雲大正15年1月号「島の明けくれ」より)
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