会報30号
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令和2年 放哉忌ご案内
とき 令和2年4月7日(火)
午前10時30分〜午後2時30分
内容・午前10時30分 法要−西光寺本堂 導師−第29代住職 瀬尾光昌師
・午前11時〜 墓参と記念館見学(放哉墓碑・記念館)
・午前11時30分〜昼食・情報交歓(西光寺客殿「遍照殿」)
講演・午後12時30分 司会余暇生活開発土 星川叔子先生
朗読劇・「涛洋荘放談」
昭和14年7月29日に小豆島渕崎村「涛洋荘」にて実施された「層雲」の会合の再現
出演者
荻原井泉水−岡田好平
秋山秋紅蓼−上田行雄
内島 北朗−宮原正行
眞鍋 竹灯−井口英俊
井手 逸郎一森 克允
井上三喜夫−藤本義則
国本多景詩−山下竜一
杉本玄々子―瀬尾光昌
井上 一二−三枝祥三
ナレーション一星川叔子
放哉ジュニア賞表彰・午後2時 下地芳文教育長
講評・三枝断水先生(三枝祥三)
終了・午後2時30分予定 |
木瓜の蕾の会年間作品集
南郷庵(現・小豆島尾崎放哉記念館)から誕生した『木瓜の蕾 の会』は、今年で四年目を迎えます。
隔月で投句選句をし、年に一皮、放哉忌前夜に全員集合。句会
の名付け親である放哉研究家・小山貴子さんを囲み、食事を楽し
み、おしゃべりを楽しみ、句会を開催しています。会員の大半は
初心者で、まだまだ手探りの状態ですが愉しみながら句作に励ん
でいます。
※新メンバ募集中!!‥年齢は問いませんが女性限定です。
グラジオラスの風につかまり今年の空蝉 貴子
ごろんとして虫の音に目を閉じる 知子
「バカヤロウー」 と目で叫んでみる 舞子
すってんこっせつ 麻代
あったらいいな後悔の底 美樹
半年がかり 塀の抽象画 枯れ落ちる 洋子
今夜は月明かりでいいや 佳子
急な雨のあとの青空 虹を探す 玲子
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巻頭論文
井泉水と放哉(4) ―井泉水日記「放哉を島へ送る時」―
日本放哉学会 小山貴子
※編者注 井泉水と放哉(1)(2)(3)(4)と纏めました。こちらをクリック
―井泉水日記「放哉を島へ送る時」
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−放哉忌と霊雲帖−
「放哉」南郷庵友の会 森 克允
はじめに
元号が令和に変わったので、友の会が再結成されたときに行われた「放哉忌」を回顧してみる。
その儀式は、平成四年四月七日 (放哉命日)、小豆島霊場第五十八番札所西光寺で開かれたのがはじまり、初代会長の鎌田元徳翁が亡くなつてから休眠中の「放哉」南郷庵友の会が再び動きだしたのは、土庄町が計画した仮称「小豆島尾崎放哉記念館」の推進に、友の会の協力が必要不可欠との頼みに応じ、その際、新たな会長に岡田好平氏を迎え、更に役員人事を刷新。
放哉を顕彰する事業として、会報「放哉」の復刊と、放哉の南郷庵を起らせ記念館として再建するための推進母体となり、先ず、資料収集と放哉ゆかりの寺で法要を営むことから始まった。
放哉の法要と墓参に参列するため、島内外から愛好家五十余名が西光寺客殿に集まっていた。やがて、式典を世話する井上泰好幹事が、「参列者の皆さん法要が始まりますので本堂へ移動をお願いします。」各々が案内に従って式場に歩を進める、本堂内は静寂で厳粛な空気が漂うなか、お坊さんから、手のひらにお香と備前勤行次第を頂いて着座した。
第二十人世住職瀬尾哲命師(放哉を庇護した第二十六世杉本宥玄の末弟子・友の会事務局長)が導師を努める。その傍らに客僧の横山玄浄師、石井玄妙師(放哉時代は小僧が三人いた、その内の二人)両老僧が座す。先に瀬尾光昌副住職は、数名の僧侶を従え所定に着いている。立派な法要が営まれる予感…。ふと見上げれば祭壇には「翌からは禁酒の酒がこぼれる井泉水」其の戒めの黄金の瓶が供えられている…何と粋な計らいではないか!地下の放哉「生きとる内に…」司会を担当する三好晧幹事が「只今より故自由律俳人尾崎放哉・大空放哉居士の第六十七回忌法要を執り行います。放哉ゆかりの寺瀬尾住職殿に読経・ご供養お願い致します。」と宣言。
導師の鉦と発声に唱和…リズミカルな読経が堂内に溢れ、厳かな光景に真実心が引き締まった。
そこから二十七年を経て、放哉九十四回忌が瀬尾光昌住職に継承して執り行われた。読経の流れる中、回し焼香、住職の音頭で般若心経一巻を骨が唱えて冥福を祈った。儀式が済んで直ぐ、瀬尾光昌住職のご挨拶の冒頭で「祭壇には大空放哉居士のお位牌と『層雲』物故者記録を綴る『霊雲帖』(棒線・写真1)をお供えして拝みました。」と満ち足りる丁寧な説明を頂いた。
「層雲」霊雲帖の行く末を案じて
光昌住職が語った、層雲物故者の「霊雲帖」が何で此処に存在するのだろうか。誰が何時の頃に作ったのだろうか!友の会で最も活躍した層雲同人の井上泰好(井上一二の甥) さんが、本家鍵屋(屋号)の観音堂で霊雲帖を見つけて(謎)、「西光寺」瀬尾哲命住職に相談の上で持ち込んで管理に至ったのが有力であろう…と、特別な印象を感じるけど定かではない。
泰好さんが亡くなる前の平成二十七年十月十九日のこと、お孫さんからの電話で「祖父が来てほしいと云うてます。」慌てて土庄中央病院に行った。
泰ちゃんが「霊雲帖は西光寺にいる僧侶の高尾師か小川師に云えばわかる。
放哉の位牌と霊雲帖を一緒にして保管しとるからそれの記帳は僕がしていたけどな
鳥取の田中伸和さんが亡くなったらしいが? これから霊雲帖は下村鴨川さん(大阪市・放哉七十六回忌で講演『私の知っている尾崎放哉』した方)に頼んでいるからしんどいわ…。」と酸素吸入装置を外して眼を伏せたまま苦しさをガマンして吐きだした。
(病気の状態は、親類筋にあたる三枝祥三幹事に即伝えた)彼の言葉から、西光寺で霊雲帖を管理していることを察知した。又、下村氏の他に層雲社幹部の藤原よし久(大分市・日本放哉学会)さんにも頼んでいたようだ。気にしながらも、私の判断ではまだ大丈夫と思い層雲社への連絡や両氏への確認を怠っていた。
泰ちゃんには薄情≠ネことに十三日あとの十一月二日「無常」の旅に立ってしまった。
泰ちゃんは、「放哉」南郷庵友の会の年間作業工程を示す資料は残したが、会報の編集等に携わる人材育成をしていなかったけど、彼の功績を讃えるため役員が「会報」継承を誓うしかない。
人間っていいなあ春の風がやさしい
方舟に乗って逝きたし天の川
赤ちゃん返りおしめしてあの世へ逝くか
泰好
兄の傑作句で偲びました。
時節は移って、下村さんから電話があった「放哉忌には必ず行きますからねー・」。別便の暑中見舞いには「平成二十九年盛夏」と印刷されたその余白に手書きで「いつまでもお元気で祈念しています。」と寄せて来たけど…、
泰ちゃん頼みの鳴川さんも体調を崩し、
かるい口づけだけで通じ合える春の夜の潮騒 鳴川
島を訪れる事もなく翌年二月六日に亡くなってしまった。
第四回放哉大賞句
おのれ失うたものさらしている冬の残照 よし久
随雲時代の
あすは放哉忌『海も暮れきる』
と詠んだ藤原嘉久氏からの音信も途絶え気懸かりであったけど、平成三十一年四月十日に八十七歳の生涯を閉じていることを層雲誌面で知った。
放哉忌の常連二人の再来島はおろか、泰ちゃんの願いは叶わなかった。
井上泰好が霊雲帖の行く末を案じたのは、伯父が関与し「魂」がこもっていることを甥として良く知り尽くしていた。現に、平成八年四月一日発行の会報「放哉」第六号『昭和十四年夏−小豆島』 −層雲全国大会・霊雲帖・寄せ書きの掛軸・放哉墓前写真−と、題して詳細な研究発表が物語っている。
一二さんの閃きは放哉十三回忌
大空放哉居士の「位牌」と「霊雲帖」がセットになったその起源はいつの頃のことか、誰の指図で始まったのか…その事は「層雲」誌面に手掛りがあるとみて記事を探った。「層雲」 昭和十三年五月五日発行「井泉水私信」の中で問題を解くヒントになる良い文章なので抜粋する。
●四月二日、私は一二と連立って、小豆島に渡って、放哉の亡き跡を弔うた。数へてみるとことしは、放哉の第十三回忌に普るのである。私が小豆島に行ったのは、放哉の埋葬の折りであって、十三年ぶりになることかと、歳月の過ぐることの早さに驚かれるのだ。小豆島もずいぶん攣った。その頃、塩焼く煙がのどかに立ちのぼってゐた塩田は、東洋紡績会社の近代的建物が立ち、橋梁は立派になり、自動車殖えてゐた。だが、放哉を世話してくれた西光寺の玄々子をはじめ、放哉と遊び友達であった畔亭(赤木宥中)木星(横山玄浄)も健在だった。放哉の正常忌日は七日ではあるが、繰上げて、西光寺の本堂に於いて、回向供養をした。玄々子が導師となり、畔亭、木星が共に読経してくれたことは、地下の放哉もさぞ満足したことと思ふ。玄々子が黄金の液一瓶と、筍なども供へられてゐたことも、放哉を微笑せしめたに違ひない。南郷庵も、私の書いた放哉の句碑がだいぶ時代がついてゐた。放哉の句に読まれた大松は昔のままであった。彼が起臥してゐた本堂につづく居間は、本堂から引き離して改築されて、小ざっぱりとした六畳になってゐた。それから、彼の墓は、これも彼の墓を建てる為の後援曾に依って出来たものだが、五輪のりつぱなものが建てられてゐるのを、私は始めて見て彼に寄せられた大方の友情を今さら涙ぐましきまでに感じたことである。 (四月十日)
放哉の十三回忌を終えた井泉水の気持をあらわした中で「霊雲帖」に触れる記事は見あたらないので、更に「層雲昭和十三年七月戟の井泉水私信から一部分の記事を紹介する。
●先ごろ、小豆島でね放哉十三回忌を営んだ折りに、「南郷庵が其後、定住者がないといふ事を聞き適当な堂守が若しあらばと依頼されてゐたところに、福知山の伊東俊二がしばらく和歌山県の寺に住んでゐたこともあり、そこを罷めて、何處ぞきらくに住める處はないかと云ってゐたので、南郷庵へは俊二に行って貰ふことにした。放哉第二世としては、性格からして違ふ譯謬だけれども、実を、云へば、放哉亡き跡なればこそ、南郷庵の放哉居士だと云へ、その生前には、放哉的いふものは、はた迷惑のものであつたのだから、放哉通りの第二世が出来ては困る次第なので、俊二のやうな人が、却て、放哉の蹟を守る人として適當だと思つたのである。」
玄にも「霊雲帖」 のことに触れる記事は見当たらないが、「定住者がないといふを聞き」と井泉水に云ったのは、杉本宥玄和尚であろう。
一二さんは、井泉水作「自然の扉」を読んで感動し、大正三年に井泉水が高松栗林公園を訪れた時入門を願って許された。
又、同九年四月から五月にかけて、井泉水夫妻は鍵屋の別荘で二十日間も過ごしている。此のことは「山荘雑記」で明らかであるように、井泉水と一二は密接であり信頼関係は極めて厚い。
井泉水夫人・桂子(本名慶子)さんは、産後のおいたちがわるくして、同九年十月二十八日亡しなった。その霊を弔うため、同十三年五月、井泉水は、一二、玄々子、玉七を伴って「小豆島八十人ケ所霊場」を巡っている。
夕となれば風がでる山荘よともし火 桂子
入れものが無い両手で受ける 放哉
そこでふと層雲作家追悼を意図したのではなかろうか。前記「四月二日、私は一二と連立って」の記事で示す通り、層雲大会を小豆島で彿故誌友の回向を「放哉の島」でと企画したのは紛れもなく一二さん…。それが筆者の気持でその「伏線」が先述の放哉十三回忌執行にあったと思う。
仕掛けは一二さん
井上一二さんの閃きの証しは、井泉水の「霊雲帖」序文の中に見える。
「夏二井上一二、夙二発起シ弘ク勘説シ、西光寺玄々子香華ヲト、ノヘ法衆ヲ主宰シテ此小豆島二於テ一法蓮ヲ開ク、益シ層雲ノ道二連りタル英霊ヲ勧請シテ其ノ幽魂二供養シ奉り併テ永ク層雲道ノ為二鎮護ノ霊力タレカシト祈願シ奉ルモノナリシ、願クハ享ケヨ。
昭和十四年七月三十日 荻原井泉水恭自」
物故者を調べ追悼する事を井泉水師に提案していたことは文面で明らか。丁度その頃、放哉の蹟を守る南郷庵には、層雲作家の伊東俊二(六月十三日入庵・泰好氏調べ)が放哉二世とし移住し落ち着いていた。一二の考えを井泉水は認めて、伊東俊二に物故者の調製を指示し、その原稿を基に井泉水は「霊雲帖」と題して序文を添えた。一二の念頭にあったのか…岡山の井出逸郎に依頼し浄書してもらった。(霊雲帖には百九十一名昭和十四年七月廿八日井出逸郎謹恭)と記されている。
その成果は、土庄の西光寺住職杉本宥玄(俳号・玄々子)和尚の御奉前に供えられ、層雲全国大会が併せ行われており、層雲作家は挙って参列し、最初の回向供養が行われたのは前記(会報6号)で示したとおりである。節目の九十五回忌にあたり、今に至った経緯が分かる (「霊雲帖を前にして井泉水昭和四十三年九月八日」)コピーを会報の付録として提供する。余談だが、「層雲」誌面に昭和十四年七月二十九日夜、渕崎村の涛洋荘で放哉を侭ぶ座談会が開かれている。会報「放哉」三十号を記念に「涛洋荘放談」記録記事を用い、俄か朗読劇を試みると役員会に諮った。併せて西光寺住職瀬尾光昌師(友の会事務局長)の許可を求め、本堂に保管の「霊雲帖」を拝見し執筆。
◆二度目の供養は、昭和廿九年五月二日八十九重 於神戸祥福寺奉回向供養
導師山田無文施主
層雲 社代表荻原井泉水 以上
於小豆島井上一二花押
浄書は一二の筆跡。この中には、大正八年井上一二・竹内ヤス子との結婚を仲立ちした縁の徳田毛以三 (昭和三年?四十二才)
昭和三年と十四年に小豆島に訪れ、放哉の墓に参拝の種田三頭火(松山昭和十五年十月十一日五十九才没)の名がある。
◆三回目、十六霊昭三十三年四月六日於小豆島南郷庵放哉三十三回忌合同回向供養 導師杉本玄々子、 施主雲の会代表井上一二
◆四回目は、層雲五十年々表にて追□す朱書きで 六十六是。昭和三十六年七月二十九日観音祭の日江上亭主人識とある。
「層雲」創刊から五十周年を記念して、昭和三十六年三月まで、改訂層雲の五十年年表を井出逸郎が編集し、層雲五七二壊で発表している。それに依って一二さんが追加記帳した。
「江上亭」は鍵屋の茶室で、主人は井上二一。「観音祭の日」は鍵屋の別棟に現存する「観音堂」のことで、例祭日に記入したことを示す。
◆五回目、(会報付録「霊雲帖を前にして」 のコピー参照)昭和四十三年九月八 日、高野山親王院にて中川善教師導師として法要巌修四百八□□、井師夫妻、内島北朗、伊藤雪男、渡辺砂時流、日向野□□、井上三喜夫、井上一二参列す。
全て栄華書き、浄書は井上一二さん筆跡。この中に想像もしなかった澤よしえ(昭和三十人年四月一日七十七才)の名が、放哉と寄り添う心の理解者一二さんの粋な計らいだろうが…彼と彼女にその「意図」は繋がったかな?
杉本玄々子(昭和三十九年二月二十四日七十三才)名もあった。余談だが、荻原井泉水は、大正十三年五月七日〜十四日まで、亡き母、妻、子を弔うため、島四国八十人ケ所を杉本玄々子の案内で、井上一二と一緒に巡拝している。その後に井泉水は、高野山に登り撃寮「親王院」に夏安居しているが、師に高野山を紹介したのは玄々子ではなかろうか。因みに、翌年十一月八日「層雲供養塔」、四十六年十月三十一日、井泉水の「筆塚」が建立されている。
◆六回目に、荻原井泉水(法命・天寿妙法釈随翁居士)昭和五十一年五月廿日九十二才鎌倉市山ノ内一五三五
東京六本木妙像寺内荻原家墓所と京都東福寺塔頭天徳院内の墓所に墓碑はある。
大徳院寿翁研鐙居士昭和 五十二年八月四日 井上文八郎一二八十三才小豆郡
墓碑は小豆島渕崎の井上家墓地にあったがヾ近年島外に移転した。
内島北朗昭和五十三年三月廿八日八十四才京都。
墓碑は井泉水と一緒で天徳院の寺院内墓所に並んで建立されている。
昭和五十六年五月二十四日層雲諸霊供養並層雲全国大会本覚寺住職横山玄浄師を導師として供養参列者七十六名、雲の会
同日、一二の句碑「へんろの笠のかろかろと春を追うなり」が本覚寺内「層雲園」に建った。
◆七回目(霊雲帖二) は、平成三年九月十五日、層雲諸霊供養並に句会、本覚寺住職横山玄浄を導師として供 養、参列者三十人名、層雲香川雲の合
とあるが、誰が浄書かは不明。この年の十一月末頃、土庄町は香川県から「福祉のふるさとづくり」 の推進をうけて、町に埋もれている歴史や文化を掘り起こして後世に伝える南郷庵跡・放哉≠ナまちおこしが始まった。ところが、その頃、井泉水の「層雲」めぐり不穏な様子があった。事情はさておき、町は北鎌倉の荻原家に表敬訪問を願って、事前に放哉を顕彰する計画を伝え協力をお願いした。心配していた「層雲」名称は、平成五年十月号から「随雲」に呼び名が変わってしまった。
霊雲帖の記録には、平成十二年四月七日(放哉七十五回忌)本覚寺住職横山覚尚を導師として法要(於本覚寺)一出席−波野辺、鶴田、下村、藤原、青、金子、井川、松本、小山、弓削、坪倉、高鳥、山本、岡野、井上、以上十五名。
後ろに井上、とあり泰ちゃんが「随雲」作家になつていることが分かる。(友の会・藤井、森、松尾以上三名 井上泰好記)とある。そうすると「霊雲帖」は泰ちゃんの管理か…?井上家の菩提寺は本覚寺だから、「寺」 に保管か定かでない。
放哉記念館が開館した時は「随雲」だったが、百号目にあたる平成十三年一月号から元の「層雲」名称が復活することになつて、関係者の喜びはひとしおだったと思う。
おわりに
平成十七年四月七日 (放哉八十回忌)西光寺住職瀬尾哲命・瀬尾光昌導師として法要(放哉・物故者) 於・西光寺出席者−渡野辺、鶴田、藤原、下村、森川、弓削、千葉、黒崎、伊藤□口、井上、友の会−岡田会長外有志一一十名・井上泰好記とある。放哉の位牌「梵大空放哉居士霊」と層雲物故者「霊雲帖」このセットが西光寺で保管され、原点回帰となつた。その中心人物は「記」とした人であり、以後死ぬるまでその使命を果たしたことを「放哉忌・霊雲帖」が物語ることになるだろ…。
霊雲帖(一)
主な物故者
野村朱麟洞(桧山市大正七年十月三十一日二十六才没)
井泉水は、層雲としては単に初期の明星であつたのみでなく、長く自由律俳句の歴史を通じて輝かしき存在であるべき彼でありながら…と夫逝を悔やんでいる。
荻原桂子(井泉水夫人 東京市大正十二年十月廿八日二十九才没)
荻原井泉水夫妻は大正九年四月中旬頃から約二十日問、井上家の別荘「賓樹荘」に二十日程滞在した。(山荘随筆)本名は慶子。法命、徳泉院妙行日貞信女。賓樹荘に滞在した作品十句の中から二句づつ選んで見た。
夕となれば風がでる山荘よともし火
蜜柑たわわな奥よりの鳥のこゑこゑ 桂子
島島の眺めよろしきこの島の神
彿を信ず麦の穂の青きしんじつ 井泉水
井上一二さんは、「層雲」 昭和三十五年六月号「源泉を読む」と題して、山荘は焼けてしまったがおもいはつきない。桂子夫人の句碑「夕べとなれば風がでる山荘よともし火桂子」 がひとつネーブルオレンジの樹の中に、農地改革で残ったあまりものの一、二枚の中に芸術だけは不朽ものぞとばかり立っているのである。(その句碑は賓樹荘から本覚寺境内の層雲園に移転、主人が詠んだ「彿を信ず麦の穂の青きしんじつ 井泉水」と共にこの地「層雲園」にある。)
尾崎放哉(鳥取市大正十五年四月七日於南郷庵四十二才没・写真省略)
大正十四年八月、小豆島に渡り、井上一二・杉本玄々子らの尽力で西光寺奥の院南郷庵にて「独居無言」の生活に入る。肺結核の進行に苦しみながら句作、親しい人に膨大な手紙を送った。
山口旅人(京都府昭和八年四月十八日四十四才没)
神戸の医師で「層雲」の俳人。放哉が南郷庵で病床にあったとき、薬・注射器を送って援助した。
小針嘉朗(台湾昭和八年)
一灯園で知らた友人で、台湾のバナナ果物会社に勤務。須磨寺の放哉に台湾の凌ぎ易いことや、果物の安いことを知らせていた。小浜常高寺で生活に苦しむ放哉は台湾行きを決意する。
立石信一(小豆島昭和九年一月二十二日没) 十五年二月十五日、南郷庵より立石信一宛(書簡)
啓、只今十五日 (旧の三日)の夜です。又例の「風」が出て来ました。御ハガキ着御礼。元日にはよく来て下さいました。アナタ切りで今日まで誰も訪ねてくれる人もありません。ソレカラ又私も、ブラブラしてゐて年詞未だに失祀してます。一二君も忙しい人だから、(略) アンタを送り出して、一日、大変放哉の気持がよう御座んしたよ、お互にはじめから、エンリョなんかどこにヤッテしまった事ヤラ、(略)よい元日でした。
(後略)
渕崎村赤穂屋の人、高松の専売公社に勤務。大正九年四月、井泉水夫妻が「賓樹荘」に滞在した頃の集合写真中 (神奈川近代文学館蔵) に見えることから、井上一二さんを追って六年に入門。
※霊雲帖記名者が昭和十四年七月廿八日井出逸郎謹恭(写真省略)と記している。
紙面の関係で「霊雲帖を前にして」井泉水(昭和四十三年九月八日)の記事を付録とす。
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